「いえいえ、そんなつもりは一切。ただ、いつも来ていただいてるので」
店主は首のタオルを外し、頭を下げて、しっかりと詫びた。しかし、
「うるせーよ!」
いい放った瞬間、拓実は店主の肩を両手で激しく突いた。初老の店主はよろめき、足をすべらせた。倒れた時にぶつかった食器類は、顔をしかめたくなるような音を立て床に散った。
客席から短い悲鳴が飛んでいた。店内は凍りついていた。
拓実はテーブルに戻り鞄を手にとると、「また連絡する」と店を去った。
理沙は彼の背中を見て呆然(ぼうぜん)とした。私があんなことをいったから? 顔を歪めた。泣き出しそうになった。それよりも、とにかく謝らなきゃ。
理沙は店主の元へ駆け寄り、しゃがんだ。
「大丈夫ですか? 本当に申し訳ありません」店主に何度も謝罪した。
「いやいや、私が悪いんだよ、はは」
「何も悪くもありません。本当に……なんてお詫びしたらいいのか」
「気にしないでくれ」店主はゆっくり立ち上がった。動きの鈍さに、老いを感じた。
さすがに、この日は店じまいになった。理沙は閉店作業を手伝った。その必要はないと店主に言われたが、理沙の罪悪感が許すことはなかった。作業が終わり、理沙と店主は椅子に腰をかけた。店主の名前は、古谷(ふるや)といった。
「本当に申し訳ありませんでした」深く深く頭を下げた。
「大丈夫だって。あんたが悪いわけじゃない」
理沙は頭を下げ、唇を結んだ。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
あのう……、理沙は以前から気になっていたことを訊いてみようと思った。
「なんだい?」古谷はたれ目を広げた。
「どうして、私にホッピーをサービスしてくれるんですか?」
古谷はさらに目を大きくした。ふっ、と微笑むと、煙草に火を点けた。
吐き出される白い煙の中で、何かを追憶しているように見えた。
言葉を整理できたのか、煙草を吸い終わると、理沙の目を真っ直ぐ見つめた。
「覚えてないよな。十年以上前……君の優しさは、見ず知らずの俺を救ってくれたんだ」
【4】
古谷から、十年以上前の話を教えてもらった。
古谷は当時、家を持たず、橋の下でダンボール暮らしをしていた。失望の底に頬をつけるような毎日を送っていた。
冬の夜だった。クリスマスだった。淡いロマンが漂う空気に町中が踊っていた。古谷は白けた目で、橋の下から星のない空を見上げた。無気力なため息をついて、ダンボールに戻ろうとした時だった。
「あのう、これ良かったら飲みませんか?」後ろから少女の声がした。