「そう言えば母さん時々、父さんのこと、おじいちゃんと間違えたりするよね。」
「ああ、私を父さんって言って、自分の父親だと思っている時がある。私を忘れて行くのかな?」
「そんなことないでしょ。」
「そう思いたいけどな。」
「そんなこと。」
「この間、また夜中に出て行った母さんを探しながら、家の周りを歩いたんだ。そしたらちょうど路地に立つ母さんを見つけて、思わず駆け寄ってったら、とっても嬉しそうな顔で、私に手を振った。」
そう言うと守は声を詰まらせ、手の甲で目をこするように拭った。
「あの時の笑顔と、一緒だった。」
新婚当時、仕事から帰宅した守に、高圧ガス取締法の国家試験に受かったと、その合格通知のハガキを握りしめなが、満面の笑顔でおめでとうと叫ぶ、喜久恵がいた。
守の記憶の中にある、喜久恵の笑顔を想いながら、ホッピーに焼酎を少しだけ足した。
「この間、母さん私に、離婚してくれって言ったんだ。」
「えっ?」
「何を言ってるんだって、つい怒鳴ってしまったけど。泣きながら、そんなことを言ったんだよ。」
「母さんも、不安なんじゃないかな?父さんに迷惑をかけたくないと思って、そんなことを言ったんだと思う。責任感の強い、母さんらしい。」
冷えたホッピーの瓶の周りに付いた水滴を、指の腹で何度も拭うと、ホッピーのカタカナが、何故だか愛らしく見えて来た。
夏の暑い最中に、実家のマンションの修繕工事が始まることになり、七月の最終日曜日に帰ると、黒いネットで外壁を覆われた十五階からの眺めは、うっすらとフィルターでも、かかったような景色に見えていた。
「今夜は、花火大会よね。」
「そうね母さん、玄関側の通路から、花火が見えるんじゃない?でも遠くに小さくだと思うけど。」
夕飯のおかずをテーブルの上に並べていると、気がつけば、二人の姿が見えなくなっていた。
玄関の扉を開けながら、
「ご飯だよ〜。」
通路の端まで行った二人が、修繕の足場が組まれた鉄骨の、その僅かな隙間から見える小さな花火を、じっと眺めながら立っていた。
黒いネットを透かして見える花火の光が、少しだけ滲んで見えた。
喜久恵の後ろに守が立ち、夕飯のことも忘れて花火を見つめている、そんな二人の背中を眺めながら、
「同じ景色をこんな風にして、ずっと見て来たんだな。」
二人の背中越しに、遠くで打ち上がった小さな花火がまたひとつ、滲んでは消えて行った。
季節は、秋になっていた。
ある日の午後、守からの電話で、
「仕事中に悪いな。今夜町内会の集まりで遅くなりそうだから、ちょっと早めに帰って来てくれないか。母さん一人になるから。」
「分かった、早く帰るようにしたいけど、父さん夕飯はどうするの?」
「母さんと食べてから出る。集まりは、夜の七時からだから。」
実家に着く頃には、もう夜の九時をまわっていた。