「大丈夫?骨とか折れてないの?」
「腕が痛くて。」
投薬治療で、血管の壁が弱くなっていた喜久恵の両の腕には、内出血の跡が見てとれた。
守が、出て行こうとする喜久恵を制するために、両腕を掴んだ時のあとらしい。
「ちょっと父さん?」
守は背中を向けながら、黙って右手をあげた。
もう分かったと言っているようなその仕草に、何も言えなくなった。
誰も悪くない。
何も悪くない。
こんな時は、そんな言葉を、いつも胸の中で反芻するようになっていた。
夕飯の買い物から帰り台所に立つと、二人の好物でもある、切り干し大根を作り始めた。
鍋を探しながらふと居間をみると、守が焼酎の瓶とホッピーを、テーブルの上に並べて置くのが見えた。
「父さん、それホッピー?」
「ああ、最近これなんだ。」
「へ〜、父さんがホッピー呑むの、初めて見たかも。」
「昔は、よくこれを呑んだもんだ。甲種機械主任者免状を通商産業大臣からもらった時も、母さんと一緒に乾杯したりしたんだよ。母さんは同じ年に看護婦免許証を厚生大臣からもらったから、免状をテーブルの上に二人で並べて、ホッピーで祝ったもんなんだ。」
「母さん、昔は父さんと呑んでたの?」
「いや、昔から酒は呑めなかったから、母さんはホッピーだけでビール気分ってやつさ。
私は安い焼酎で、割って呑んでたけどな。」
「なんか持って来るね。」
「お前も呑まないか?」
冷蔵庫にあった豆腐とトマトを適当に切ると、皿に盛ってテーブルの上に置いた。
「お前が生まれた時、母さんの入院していた病院に、ホッピーを持って行ったんだ。」
「また、乾杯しようと思って?」
「いや、コスモスの花を挿してさ、母さんのベッドの脇に置いたんだ。ちょうどコスモスの季節だったから、母さんが好きな花でもあるし、柄にもなく持って行ったんだよ。」
「父さんらしいね、花瓶の代わりにホッピーの空き瓶。」
「母さん、産後もしばらくは入院していたから、コスモスの花を何度か持って行ったんだ。」
窓辺の脇にあった小さなテーブルの上に置くと、ベッド周りはレースのカーテンで仕切られていて、そのカーテン越しに、コスモスの影が見えていた。
「母さんが眠っている間に、新しいコスモスを瓶にこっそり挿して帰っていたら、私が来たのがコスモスの影でわかったと、よく言ってたっけ。」
「茶色のホッピーの空き瓶に、コスモスのピンクか。」
「最近は、そんな昔のことばかりを、思い出したりするんだ。」