病院から戻ると、十五階のマンションから見える西の空の夕陽が、ぼんやりと赤かった。
沈む太陽がくっきりと遠くに臨める実家からの風景も、その日の赤いぼんやりは、悶々とする心を、映し出しているように想えた。
そんなある日、喜久恵が言った。
「これ、持っていてくれる?」
差し出されたのは、小さな木の箱だった。
箱の蓋を開けると、ガーゼに包まれた、小さな何かが見えていた。
「これって?」
「あなたの、へその緒よ。」
少し黄ばんだ色のガーゼを取り出すと、手のひらに載せて、ゆっくりとそれを開いた。
カラカラに乾いたへその緒が、木綿の糸の先に丸まった形で付いていた。
その色は褪せたピンクで、まるで長い時間を上乗せして、出来たような色だった。
「あなたの生まれた時の身長と体重も、箱の裏に書いてあるのよ。」
48、5センチ、3100グラム。
木箱の裏に書かれた数字は、細い黒インクで、しかも慎重な筆跡で書かれていた。
「母さん、なんでこれを?」
「最近わたし、何でも忘れるでしょ?」
「この間先生が、忘れてしまうことを気にする人は、認知症じゃないって言ってたよ。」
「そう?」
「認知症の人は、わたし認知症かしらなんて、言わないって。」
「とにかく、これは文江が持っておいて。」
渡された木箱はとても軽いのに、その重さはしっかりと、手の平から伝わって来たのだった。
「ただいま〜。」
ある日実家に帰ると、不穏な空気が漂っていた。
「父さん?」
居間にいる守に声をかけると、力無い目が見上げていた。
「どうしたの?」
「母さん横になってる。昨日倒れて、腰を打ったんだ。」
また夜中に出かけようとしていた喜久恵を、出て行くなと持っている鞄を掴んで、守がそれを引っ張った。すると二人で引っ張り合いになり、思わず守の手から鞄が外れて、喜久恵が後ろへ倒れたと言う。
「何やってんの?」
喜久恵は、障子を挟んだ隣の部屋で、壁の方へ向きながら、ベッドに横になっていた。
丸くなった小さな背中が、見えていた。
「母さん、寝てる?」
ゆっくりと振り返った喜久恵は、泣いていたのだろうか、腫らした目で静かに答えた。
「こけちゃったの。腰が痛くてね、まいったわ。」