女は不意に投げキッスをしてきた。指を唇に当て、投げるという王道のそれではなかったのは、露骨すぎるアピールを避けたせいだろう。
翔は女を見たまま、グラスを口につけた。そして、女の方に行くために立ち上がろうとした瞬間、ある事に気付き、背中に寒気が走った。ハニートラップだ。彼女は週刊誌記者で、この店まで翔について来たのだ。翔とのピロートークの最中に総理の情報を聞き出し、記事にするつもりに違いない。ということは、一緒にいた男も仲間か。なるほど、男女ペアの女が、ハニートラップを仕掛けてくるとは誰も予想しない。しかし、翔はそれに気付いたのだ。先見の明だ。
しかし、彼女が入手したいスクープとはなんだ――
翔に一つの懸念が浮かんだ。不倫だ。現在、総理は女子大生の稲森初音と恋仲にある。勿論、その事は総理秘書の中でも一部の人間しか知らない。こんな事が明るみに出れば一大事だ。決して外部に漏らすことはできない。
その時、女は背中を向けたまま、驚くべき事を口にした。
「晋三……初音……」
総理と女子大生の名前を、はっきりと言ったのだ。そんな事は既に知っている、とでも言う様に。翔は自分の顔が青ざめていくのがわかった。
彼は、次の衆議院総選挙への出馬が決まっていた。しかし、スキャンダルを起こした総理の元秘書に投票するのは、与党信者だけだ。過半数の無党派層が、彼に投票する訳がないのだ。
道は閉ざされた。彼の政治家人生は、開始の号砲が打たれる前に終わってしまったのだ。
しかし、彼には株がある。彼は収入の半分を株の売買で賄っていたが、これからは、そのすべてを株に頼らなければならない。彼はスマホで、株アプリを立ち上げた。画面を見て、安堵した。持ち株の9割は順調に株価が上昇していたからだ。
しかし、何かが引っ掛かった。株価推移のグラフが、過去にどこかで見た形なのだ。株価だけではない。円・米ドル・ユーロの為替推移も過去に見たそれだ。
彼の呼吸が一瞬止まった。それが、いつ見たものかを思い出したのだ。10年前、2008年9月、大手投資銀行リーマンブラザーズの経営破綻による『リーマンショック』だ。大きな損害を被った彼には、苦い思い出だ。そして今、再び同じ事が起きようとしているのかもしれない。現在、第二サブプライム危機が騒がれているが、当時のような高額の住宅ではなく、自動車ローンが多くを占めているため、最大手のニックブラザーズ経営破綻や、世界的金融危機は考えにくい。しかし、現在の米国は当時と同じ共和党の大統領だ。不測の事態に公的資金を投入するとは考え難い。どっちだ。これは、当時と同じ事が起きる前兆なのか。ニックブラザーズは破綻するのか。しかし、彼の先見の明は発動しなかった。
翔は、ワンピースの女に目を向けた。深い情報を掴んでいる彼女のことだ、経済の深層部も把握しているかもしれない。が、彼はすぐに頭を横に振った。彼女はたかが政治記者だ。世界経済やニックブラザーズの今後がわかるはずがないのだ。
その時、女は大きな声で彼に預言した。
「すっごい、ニックショック!」
彼は持ち株のすべてを売りに出した。