すると、産業医は視線を右に逸らした。今、注文などしている場合か、聞くべき事があるだろうと言いたげに。確かにその通りだ。小浦は、産業医以外には聞こえないように声を発した。
「教えてください……僕は、何の病気なんですか……」
「……心臓」産業医は明確に宣告した後、「ハツね」と言った。
産業医に告げられた臓器が跳ねた。焼き鳥屋だから「ハツ」と言った彼女の医者ジョークには、愛想笑いすらできなかった。「心臓の重病」を抱えているのだ。再び涙が溢れそうになったが、病気の詳細を、助かる見込みはあるのかを聞かなければならない。しかし、第三者がいる場所での繊細な話は、彼が望むところではなかった。
「どこか……静かなところに移動しませんか」悦司は言った。
ところが、産業医は彼の意図を理解してくれなかった。老婆のように掠れた声で「なんで?」と訊いてきたのだ。小浦は堪えきれず、自身の思いを口にした。
「俺の、息子が大きく」なるまでは、死にたくない! だから、治療法を教えてください。「もう我慢できません!」言葉足らずではあったが、全身全霊で気持ちを伝えた。
「すっごい、肉食!!」産業医は答えた。
どういうことだ? 肉をたくさん食べると治る病気なのか……??
考えを巡らせたが、凡人には若手天才医師の治療案は理解できなかった。
■白ワイン
彼の右口角が上がった。
背中を向けて座っていた女が、体をくねらせて、上目遣いで誘惑してきたのだ。
城和院翔(しろわいん しょう)、彼がモテる理由はいくつかある。
まずは、『銀座英國屋』で誂えた、このスーツだ。一般的な35歳の男が着られるような代物ではない。しかし、彼には先見の明があった。株で儲けた金で買ったのだ。勿論、総理秘書である以上、量販店のスーツを着る訳にはいかないという事情もある。が、理由はどうあれ、この高級スーツが彼の魅力を高めていることは間違いない。
もう一つの理由は、顔だ。所謂イケメンである。周囲からも、小栗旬に似てるね、とよく言われる。ただ、そこまでの高級顔ではないことは、本人もわかっていた。例えば晴夏に「ガッキーに似てる子、紹介するよ」と言われた時も、実際に会ってみると、確かに丸顔ではあるが、ピアノの鍵盤を彷彿させるほど強調された歯並びの子だった。きっと晴夏はガッキーと楽器の区別がつかない人種なのだ。つまり、似ているというのは、あくまで似ているだけで、本人ではない。それでも彼は、風邪を引いたときの小栗旬ぐらいの顔であることは自負していた。
そして現在、彼は焼き鳥屋で、ワンピースの女に誘惑されているのだ。ついさっきまで、彼女の向かいには若い男が座っていた。緊迫した様子だったから、別れ話でもしていたのだろう。そして、男が席を離れるとすぐ、女は翔に色目を使い始めた。別れた直後でも、新しい男に心を移せる女なのだ。