「隠さず、正直に言ってね。颯太のためにも……」
「うん、わかってる」颯太は去年生まれた長男だ。
「悦司に何かあったら、私も颯太も……」妻の声は涙で震えていた。
「大丈夫だって」本心ではなかった。なんとか気の利いた台詞を言おうとしたが、産業医が戻ってきたので、じゃあ、と言って電話を切った。
トイレに行く前とは違い、産業医は真剣な眼差しになっていた。とうとう死の宣告だ。小浦は重圧に負け、目を一瞬そらしてしまったが、颯太の物心がついた時、既に父親はいないという状況は、なんとしても避けたい、正面から病気と向き合わなければ、と思い直して視線を戻した。
「ねえ、さっきの電話の相手、彼女?」産業医が言った。
「やめてくださいよ。そんな人いませんよ」小浦は妻を愛している。勿論、愛人などいない。しかし、彼女は何故そんな質問をするのだろうか。その病気は性交渉により伝染るもので、妻以外にもそういった相手がいるのであれば、その人も検査を必要とするということか。HIV? B型肝炎による発癌?? 様々な病名が頭を過るが、素人の考えでは結論に達することはできない。しかし、彼女は次の言葉を発しなかった。
「ピーコさんの思っている事、はっきり言ってください。男として覚悟はできています」小浦は自ら切り出した。しかし、彼女は口元を少し歪めただけだった。小浦は我慢できず、震える声で言った。
「僕は、そんなに重い病気なんですか?」
産業医は少しの間を空けた後、静かに「重病……」と答えた。
覚悟はしていた。しかし、実際に言葉で聞くと、身体に圧し掛かる重たいものを感じた。
「……トイレに行ってきます」小浦はゆっくりと立ち上がり、トイレに入った。
あらゆる臓器から声が漏れそうになった。小学生になった颯太が、小浦の遺影の前で手を合わせている、そんな映像が脳内に流れた。小浦は洗面台を両手で強く掴み、溢れてくる涙を堪えた。そして、大きく深呼吸をした。大きく息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐いた。まだ、何もわかっていない。その病気は早期治療により治るものかもしれない(勿論、手の施しようがない状態かもしれない)。全てを把握した上で、その後のことを考えるべきだ。蛇口を捻り、大量の水で顔を洗った。ハンドタオルがなかったので、服の袖で軽く拭いた。そして、トイレを出て席に戻った。
産業医は左に顔を向けていた。治療法について考えを巡らせているのだろう。彼女も小浦のために必死なのだ。
暫くして、産業医は目の前にいる男に気付き、驚きの声を上げた。沈思黙考のあまり、小浦がいることに気付かなかったのだ。彼女は無理して笑顔を作り、店員に「ソト1本お願いします!」と言った。彼女はさっきも「ソト」を注文したはずだが、あれから何かが提供された様子はない。きっと、それは、某バーガーショップの「スマイル」と同様、料理ではないのだろう。ということは、待っていても何かが提供される訳ではない。
「何か、食べ物頼みます?」小浦は訊いた。