「あいよ!」熊店長が応えた。
今は、悦司の真剣な思いに応えるだけだ。だが、草食臭が全身から溢れ出る男が、求愛行為などできるのか。
「何か、食べ物頼みます?」悦司が言った。
そう言えば、店に来てから、食べ物を注文していなかった。ピーコが右の壁にあるお品書きを見ていると、悦司が話しかけてきたが、相変わらずの小さな声と、熊店長と梅酒の大声の会話のせいで聞き取れなかった。たぶん、どこの部位が好きですか? とでも言っているのだろう。
「心臓」ピーコは好みの部位を彼に伝えた後、「ハツね」と言い直した。
すると悦司は、ピーコの耳元に口を寄せて来た。
「どこか、静かなところに移動しませんか」
ピーコの鼓動は激しく踊った。同時に、なぜこのタイミング?? とも思ったが、草食男が勇気を振り絞ったのだ。ピーコは舌で唇を濡らせ、彼の耳元で「なんで?」と吐息混じりに優しく囁いた。
悦司が次に発した言葉は、ピーコを今日一番驚かせた。
「俺の、ムスコが、大きく……もう我慢できません!」
「すっごい、肉食!!」
絶対、お持ち帰りできる。ピーコは確信した。
■コーラ
小浦悦司は彼女に誘われた時、覚悟を決めた。
堀田ピーコは、小浦の勤め先の産業医だ。若くして産業医として認められている彼女に「話をしたい」と言われたのだ。先日受診した人間ドックで、何らかの事態があったことを彼はすぐに理解できた。
彼女が病状の告知に選んだ場所は、意外にも焼き鳥屋だった。彼女は、いつもの白衣姿ではなく、ごく普通の服を着ていた。その理由は簡単だ。自宅で血圧を計ると標準値を示すのに、病院だと高い値を示す類の人がいる。それは、医師・看護師の白衣や病院の雰囲気による緊張が原因らしい。そのため、病院では私服の看護師が血圧を測定するというのはよく聞く話だ。きっと、大衆店や普段着を選んだのは、患者の緊張を和らげるためだろう。
飲み物を注文した後、簡単な問診があった。普段の飲酒量についてだ。きっと、疾患は肝臓にあるのだ。小浦は、飲まないと嘘を吐いたが、実際は週に2、3日、自宅でビールを飲んでいた。
「ちょっとぐらい、いいと思うよ」産業医は彼の嘘を見抜いていた。
「え? そうなんですか?」小浦は肝臓の疾患がそれほど重くない事を嬉しく思った。
産業医も小浦を安心させるように笑顔を見せた後、「すいません、ソトください」と、調理場に向かって言った。「ソト」が何を意味するのかはわからなかったが、店員が返事をしたところを見ると、医学用語ではないようだ。
そこで、小浦の電話の着信音が鳴った。妻からだ。産業医の顔を伺うと、彼女は「どうぞ、私トイレ行ってくるから」と言ったので、電話に出た。
「なんの病気かわかった?」妻が心配そうに訊いてきた。勿論、妻には、産業医に病状を聞くことは伝えていた。
「いや、まだ聞けていない」小浦は、産業医がトイレに入ったことを確認してから応えた。周りが少し騒がしかったが、他人に病気の話を聞かれたくなかったので都合が良かった。