そういって、歩美は父の真似をして、ホッピーをジョッキに注ぎ、輪切りレモンの蜂蜜漬けを入れた。入れた瞬間にレモンのさわやかな香りが、さっと歩美の鼻を通り抜けていった。
「ホッピーの蜂蜜レモン割り、略してハッピー割り」得意げにいう父の姿は、歩美にはなんだか子どもみたいに見えた。「ボクが発明したんだ!」と自慢げに胸を張る少年みたい。なんだか、可笑しかった。
「おつかれさまでした」
秀男と歩美はジョッキをカチリと合わせ、静かに乾杯した。目一杯に冷やされたジョッキを持つ歩美の手は、チリチリとした小気味の良い刺激にさらされていた。歩美はジョッキに口を付け「ハッピー割り」と父によって名付けられた飲み物をグイッと喉に流し込んだ。冷たい喉越し。ほんのりとした苦みと、レモンのさわやかな酸味、蜂蜜の甘みが混ざり合って、絶妙な味わいだった。
「なにこれ、めっちゃおいしいね」思わず歩美は秀男の顔をみながら、そう言った。
「そうだろ。仕事であった、嫌なこと、吹き飛ぶだろ」秀男は小さく頷いた後、ジョッキに口をつけてグイグイと飲んだ。
「父さんな、これ飲むと、あー今日一日いろいろあったけど、がんばった。よくやったって、思えるんだよ。もう、ずうーっとそうだ」
秀男は歩美の顔を見ることもなく、ただ、ぽつぽつと呟いた。話を中断させるといけないからと気を利かせてくれたマスターが、カウンター越しにそっとレバーの串焼きばかりが乗った皿を置いてくれた。
「何回もな、あんな会社辞めてやる、って考えたことあった。上司の機嫌次第で理不尽に怒鳴られるし、部下はいい加減なことするし」
焼きたてがうまいから、早く食えと串焼きを歩美に進め、秀男も一本取ってかぶりつく。
「……お父さんでも、怒られることあるんだ」
歩美はそういって、レバー串をとり、そっと口に運ぶ。たれの絡んだレバーはしっかりとした弾力がある。今まで食べていたレバーの臭みやもそもそした歯ごたえは感じられず、味わい深かった。
「そりゃ、もう三十年以上勤めていれば、いろいろある。嫌なこともあったし、もちろん良いこともな」そういって、また、秀男はジョッキに口をつけた。
「でも、こうして、歩美と肩を並べてこの店に来られたのが、一番嬉しいかもしれないな」秀男はそういって、嬉しそうに笑った。
その言葉を聞いて、歩美はすこし、照れくさかった。そして、今日の悔しくて惨めだった気持ちが、どこかにスッと溶けしまったように感じた。
「なんか、照れちゃうね。そんな風に言われると」
歩美はそういって、照れ隠しのふりをしてジョッキをグイッとあおる。秀男は「お、良い飲みっぷりだな」と、笑った。
「いくつになっても、学ぶことばっかりだよ。歩美はまだ、始まったばっかりなんだから、ちょっとずつやりなさい。がんばらなくても良い」
「いや、頑張らないと。なんか、足手まといって感じで、職場の人にもお客様にも迷惑かけてばっかだし……」歩美がそういうと、秀男は小さく首を横に振った。
「いや、そんながむしゃらに、頑張り続けると息が切れて続かないぞ。目の前にあることを、毎日ちゃんとやる。それだけで、十分だ」
何か思い出しているのか、秀男はひとことひとこと、静かに、けれども力強く話した。
「疲れたなー、嫌になったなーって思ったら、家に帰る前に、ここに来ればいい。家に帰ってまで、仕事のことで悩む必要なんてない。ハッピー割り飲んで、うまいレバー食ってれば、いつのまにか何とかなってんだから。ね? マスター?」秀男はそういって、カウンターの前で焼き鳥を焼いているマスターに話しかけた。父と同じくらいの年に見えるマスターは、ニコッと笑って、頷いていた。