父と帰宅時間が一緒になることは初めてだった。ましてや一緒に飲みにいくことになるなんて夢にも思っていなかった。歩美はほんの少し緊張していた。
「ここ」
そういって、ニコニコした表情をして秀男が指差した店は、赤提灯がぶら下がった小さな焼き鳥屋さんだった。もしも歩美ひとりなら、絶対に足を踏み入れる勇気はわいてこないであろう年季の入った店構えだ。
「いらっしゃあい」
引き戸をあけるカラカラッという音にかぶせるように、威勢のいい声が店内から聞こえてくる。秀男が先に店に入り、続いて歩美も恐る恐るのれんをくぐった。
「お、今日はふたり? 珍しいね」カウンター越しにいるお店のマスターが、父に気軽に声を掛けている。どうやら、常連客として秀男は認識されているようだった。
こじんまりとした店内のカウンターに通され、秀男と歩美は並んで座った。おしぼりと「本日のおすすめ」と書かれた手書きのメニューを渡される。
「なんでも好きなもの、頼みなさい」
秀男はそういって、歩美にメニューを渡し、おしぼりで顔を拭きはじめた。チラリと横目で見る父の姿は、おっさん臭くてちょっと嫌だなと歩美は思う。見て見ぬ振りをすべく、メニューを真剣に眺めた。焼き鳥屋だけれど、近海物のアジのたたきもあれば、特製のレバーペーストなどというちょっとしゃれた品も記されている。
「うーん……。迷うなあ。お父さんのおすすめでいいよ。あ、お母さんに連絡した? 家で待ってるでしょう?」歩美がすこし心配そうにたずねる。
「母さんには電車の中でメールしたから心配ない」と、秀男は静かに笑っていた。
「じゃあ、すみません。いつも、ふたつでお願いします」とマスターに向かって小さく会釈した。
堀部さん、いつものふたつねー、という声が店内に響く。アルバイトらしい若い男の人が「お待たせしましたー」と、おぼんをカチャカチャ言わせながら運んできた。冷凍庫で冷やされて真っ白になっているジョッキと茶色の小瓶をふたりの前にセットする。「あと、これね」そういってトンッと小気味の良い音をならして、歩美と父のあいだに皿が置かれた。皿の中にはすこしクッタリとした輪切りのレモンがたっぷりと入っている。
「堀部さん専用の、ハッピー割りでーす」
ありがとう、と男の人に声をかける父の姿を見て、歩美は少し誇らしかった。焼き鳥屋の店員さんにまで、礼儀正しい姿をみるとは思っても見なかった。何だか嬉しくなって、カウンターに置かれた飲み物に目をやる。
「あれ? これ、ビールじゃないんだね」歩美は小さな小瓶に印刷されているホッピーという文字を目にして少し驚いた。サクラのマークがレトロな感じがして、ちょっとかわいい。
「父さんは、平日はこれしか飲まないんだ。アルコールが少ないから、明日まで残らなくて良いぞ」仕事人間の秀男らしいことをいいながら、慣れた手つきで、ジョッキにホッピーを注ぎ入れる。トクトクと注がれる金色の液体はきらきらと光っていてとてもキレイだ。そして、割り箸を使って、レモンの輪切りを三枚、手際よく入れた。「これは、レモンの蜂蜜漬け。入れると、うまいんだ」ジョッキに入れると炭酸がシュワシュワと音をたて、白い泡を作り出した。
「へぇ。私も、真似してみよう」