今日みたいに、大勢のお客様の前で公開処刑のように怒鳴られていたら、心が持たないんじゃないだろうか。同期のみんなは、うまく仕事こなしてるんだろうな……。新人研修のときに仲良くなった同期とつくったSNSのグループでは「おつかれさまー」など元気な会話が飛びかっているが、歩美はその会話に入れそうもなかった。歩美は、電車に乗ってから何度吐き出したか分からないため息が、また口からこぼれ出ていた。
その時だった。歩美の前で、つり革に掴まって立っている人が、声を掛けてきた。
「なんだか、ずいぶん疲れてるなぁ。歩美、大丈夫か?」
聞き覚えのある、優しい声。歩美は慌てて顔を上げる。そこには歩美の父、秀男が心配そうな顔をして立っていた。
「げっ、お父さん! いつからそこにいたの?」
思わず大きな声をだしてしまい、歩美は急に我に返る。
「ん? いつからって、乗り換えたときだ」
「えー、なに? ずっとジロジロ見てたの? 悪趣味すぎ」歩美は上目遣いで、ジロリと秀男を睨んだ。
「いや、まさか歩美が座ってるとは思ってなかったよ。似てるなあと思ったけど、うつむいている若い女の人の顔を覗き込むわけにもいかないだろう?」
父はそういって、困ったように、顔をしかめた。
「ずいぶん大きなため息ばっかりついてるな、と思って気になってたんだが、まさか歩美とはな」
「げっ! そんなに気になるほどため息ついてた? 恥ずかしすぎる……」
口をとがらせながら、歩美はぼやいた。いつから見られていたのだろう? まさか、涙ぐんでいたときもみられていたのだろうか? しかし、歩美の動揺とは裏腹に、秀男はどことなく嬉しそうだった。つり革に掴まっている手を少し傾け、腕時計を確認している。
「歩美、駅ついたら、ちょっとだけ付き合え」そういって、くいっと盃を傾けるしぐさを見せた。
父親に一杯飲もうと誘われるなんて、意外だった。秀男はそれほど酒に強いわけでもない。平日は晩酌していないし、会社の飲み会だといって遅く帰って来る日でもそれほど酔っぱらった様子は見せていなかった。まさか「気晴らしに一杯いこうか」なんて、誘われるとは考えもしなかったのだ。
いつもの歩美なら、何となくめんどくさそうだし「本屋寄るからパス」などといって断っただろう。けれど、今日は本屋による元気もなかった。「うん」と小さく頷いて、父の誘いに乗ることにした。
ちいさな駅のため、改札を通り抜けるだけで、疲れがどっと身体に押し寄せてくる。秀男と歩美は、なんとか改札を通り、やれやれと顔を見合わせた後、歩き出した。帰宅のために、普段利用するバスターミナルとは反対の方向だ。
「五分ぐらい歩くんだ」そういって、先をいく父の後ろを歩美はとぼとぼと付いていく。
歩美は、普段、秀男とはそれほど会話をしていない。仲が悪くはないが、特別いいというわけでもない。ただ共通の話題がないのだ。休みの日に顔をあわせても、それほど会話が弾むことはない。
中堅のガス会社の総務課に勤めている秀男は歩美よりも早く仕事に出かけ、歩美よりも遅い時間に帰宅している。歩美が小さな頃から、父は自宅よりも職場で過ごす時間が長かった。秀男は休日でも、ガス器具のイベントなどに駆り出されることが多かった。少しまえに永年勤続表彰を受け、あと二年で定年退職をむかえるところだ。