歩美はとっさに二条の姿を探した。けれど、大きな声で電話対応をしている姿が目に入る。電話先のお客様は耳が遠いのか、何度も同じ説明を繰り返している。どうやら、すぐには助けにきてもらえなさそうだ。歩美はひとりでなんとかせねば、と腹を括り「書類を拝見させていただきますので、掛けてお待ちください」と案内した。しかし、預かった必要書類はずっしりと重くのしかかるばかりで、歩美の知識では太刀打ちできるものではなかった。戸惑っている様子がお客様に伝わってしまい「こっちは時間割いてわざわざ足を運んでんだ。あんたじゃ頼りねえから、他のしっかりした人が見てくれよ!」と大きな声で怒鳴られてしまった。すみませんと蚊のなくような小さな声で謝ったのも、お客様の機嫌を損ねてしまったらしく「おい、こんな新人の小娘に担当させるな! 責任者呼んでこい!」とさらに荒ぶった態度をとられてしまった。
歩美は悔しくてたまらなかった。自分だけで対応できなかったこと。お客様を怒らせてしまったこと。泣いちゃいけないと心のなかでは必死にこらえようとしたが、耐えきれず、瞬きと同時に涙がこぼれてしまった。
「泣いてるヒマがあるんなら、もっと勉強しろ!」
そのとき、電話を済ませた二条が「お客様、大変失礼しました」と慌ててやってきた。歩美には「事務室に下がりなさい」と厳しい声で告げ、窓口から離れるように指示をした。
お客様からの矢ように鋭く投げかけられた言葉に、歩美は自分の無力さを感じていた。まだ新人なのだし、わからないことは二条先輩が助けてくれると、どこか甘えていたのも事実だ。
「……くやしい」事務室にさがり、歩美は溢れ出る涙を、指先で懸命に拭った。
「堀部さん、大丈夫? ちょーっと、困ったお客様に当たっちゃったねぇ」
少し時間が経ったのち、二条が事務室に入ってきた。怒っている様子はなく、むしろ、優しげな笑みを携えている。
「すみませんでした。……わたしが勉強不足だから、お客様を怒らせてしまって」
歩美は深く頭をさげて謝罪の言葉を口にした。そうとしか、言いようがなかったからだ。
「だーいじょうぶ。堀部さんが悪いわけじゃない。あ、もちろん相続関連の勉強は急務! だけどね」
二条のあっけらかんとした口調に、歩美は少し拍子抜けした。
「あのお客様ね、相続で色々と揉めてるのよ。堀部さんがここにくる少し前にも同じように、たーっぷり書類持ってきてね。書類の有効期限が切れてるとか、必要な場所に判子が押されていないとかで、散々怒鳴り散らして帰ったのよ」
「そうなんですか……?」二条の話を聞いて、歩美の心にずっしりとのしかかっていた重りが、ほんのちょっと軽くなった。二条はちいさく微笑み、話し続ける。「新人の堀部さんじゃなくても、相続って難しい手続きだからさ。そんなに気にしなくて大丈夫。みんな、お客様に怒鳴られるたびにレベルアップしていくんだから。一回怒鳴られたくらいで、しょげちゃダメよ」
そういって、優しく歩美の肩をポンポンと叩き「さ、堀部さん。窓口に戻りますよー。もう、窓口も閉める時間だし、さっさと片付けちゃお」と、歩美が泣いていたことには、気がつかないフリをして励ましてくれたのだった。
「怒鳴られながら育つって言われてもなあ……」