「さて、と。明日も仕事があるんだから、もう一杯だけにするか。母さんも家で待ってるんだし」
急に照れくさくなったのか、秀男は歩美の顔を見ながら、テキパキと話し出した。
「そうだね。明日も、仕事だもんね!」そういって歩美は皿に残っていたレバー串を取ってもぐもぐ食べた。
お勘定、お願いします、と秀男はマスターに声をかける。アルバイトの男の子が伝票を持ってやってきた。
「マスターが引退するっていっても、ボクがこの店継ぎますんで。よろしくお願いします」はじけるような笑顔で話しかけてくる。「こら」とマスターは苦笑いしながら注意した。「すんません。うちのせがれが。まだまだ、修行中のバイトの身なんですけど」困ったような表情だけれど、マスターはどこか嬉しそうだった。
「ありがとうございましたぁ」
威勢のよい挨拶に見送られ、秀男と歩美は店を後にした。
「なんか、すっごくいいお店だったね。お父さん、やるじゃん」歩美はそういって、父の背中をぐいぐいと押した。
「そりゃそうだ。何年サラリーマンやってると思ってるんだ?」秀男は笑いながら胸を張る仕草を見せた。
ずっと一緒に暮らしてきたのに。歩美はこれまで気付きもしなかった父の顔をいくつも覗いた気がした。父はこれまでに何度、あの店に通ったのだろう。何度、仕事での悔しい思いを乗り越えてきたのだろう。家ではそんな素振りもみせないけれど、きっと胸の中にはいろいろな思いが渦巻いていたに違いない。
普段、家では見せてくれない父の姿を知り、歩美は何だか嬉しかった。そして、父がこんなふうに励ましてくれるなんて考えたこともなかった。
ありがとう、と口に出してお礼を言うのは、なんだかやっぱり照れくさい。歩美は先を歩く父の背中に、感謝の思いを目一杯注ぎ込んだ。
歩美の思いを乗せた夜風は、親子をぐるりと優しく包みこんだ。