進むにつれて沢の音は少しずつ大きくなっていく。
しばらく進んだところで、また左に入る小道があって、そこに立つ案内版には避難小屋と書かれていた。
男は迷わず左の道へ進んだ。
ここだ!とうとうやって来たのだ。
男は、その場所をしげしげと眺め入った。
そこは、山道の脇の林を切り開いたように不自然に空き地のようなスペースができあがっている場所だった。しばらく人が来ていないのか、向こう脛のあたりまで長く伸びている雑草もちらほらと見えた。
小屋は、思っていたよりも小さかった。ほんとに一時的な避難で使う程度の広さしかなかった。
何組もは同時に泊まることはできないだろう。宿泊用ではないのだから、当然か。
それに、経年の劣化が相当に進んでいるようにも見えた。一応、管理はされているようだが、無人の施設だ。
おやじと、母さんが訪れたという日からは、かなりの歳月が過ぎている。おやじたちが泊まった時は、もう少しましだったかもしれない。そうであって欲しいと思った。
どちらにしても、この場所に間違いはない。確信した。
目の前には、大きな古木がまわりの木々とは一線を画すようにして上へ伸び、枝葉を大きく広げている。
その木は、予想以上に大きかった。
男は、その大木の元へと雑草の中を分け入っていった。その幹は確かに根元のすぐ上のところで二本に分かれて、それぞれの根が地中に深く伸びている。元々は二本の独立した木だったのだ。
上に伸びるにつれて、絡み合い、見ようによってはお互いが支え合うようにして、一本の巨木となって大きく枝を広げ、下から見上げるものにとっては、空全体を覆うほどにさえ見えた。
男は、その存在の威圧感をひしひしと感じていた。そっと手で触れてみる。厚く、細かくひび割れざらついた樹皮はどこか優しく、この古木がこれまで生きてきた時間の流れが掌から沁み込んでくるようだった。
――おやじと、母さんもこうして手を触れたのだろうか?
この古き連理(れんり)木(ぼく)の前で、笑顔ではしゃいでいる母さんと、おやじの姿が見えてくるようだった。この男女の深き絆を象徴すると言われる古木は、どのくらいの年月をこの場所で生きてきたのだろうか?その計り知れない年月の間のほんの一瞬に、おやじと、母さんは立ち会ったのだ。
「この連理木の謂(い)われのとおり、二人はその人生を終えるまでいっしょに支え合って共に過ごすことができました。父は母が亡くなった後も、母のことを想って生きました。二人とも幸せだったと思います。
……ありがとうございました」
思いがけず、意識もしないままに、この古木へのお礼の言葉が口を衝いて出た。
「俺も将来を共にする女性が現れたときには、おやじと、母さんのようにまたここに来たいと思います。