おやじ、母さん、いいだろう。そうしたいんだ」
――男はそうつぶやいて、何かの影を目で追うようにゆっくりと振り向いて、小屋の方に目をやった。
あの日の父と母が、笑みを交わしながら小屋の中に入って行く姿が見えていたのかもしれない。
――小屋の中に残したという母さんとおやじのメッセージを記したノートはさすがにもう残っていないだろう。
だけど、後で小屋の中もひととおり見せてもらおう。もしかしたら……そんな想いもわずかながらに心の内にある。
でも、今はこうして、もう少しだけここにこうしていよう。古木の大樹の傍らに佇んでいよう。
あの夜、酔っ払いながら母さんのことを話していたおやじのことを思い出しながら。
いつも、おやじのそばに寄りそうようにしていた母さんの笑顔を思い出しながら。
俺の知らないおやじと、母さんが、あの日、ここに居て笑い合っていた情景に思いを馳せながら。
――凜とした涼しさを伴った風が下の方から吹き上がってきてすり抜けた。
細かく折り重なりながら、大きく広げた古木の枝葉がざわめいた。
新緑の香りと、どこか懐かしい香りが混ざり合った、柔らかな空気の流れが男の身体を包み込むようにして尾根の高みの方へ流れていった。
鳥のさえずり。草木(くさき)の下にひっそりと隠れている虫の声。遠くからかすかに聞こえる沢のせせらぎの音。いくばくかは混ざっているだろうと思われる滝の落ちる音。
ここでは、それらのものが、折り重なり、絡み合いながら、ひとつとなって、遙かな過去から遙かな先へと向かって長閑(のど)やかに流れていくのだ。
すべては、刻々と移りゆく陽炎の揺らぎにも似た時の積み重なりでしかなく、他には何も存在しない。
時の余韻をその肌で感じながら、知らず男の頬には一筋の涙が伝っていた。