9月期優秀作品
『遙かなる道標』伽倶夜咲良
二時間あまりをかけて男は尾根に通じる細い山道(さんどう)を登ってきたが、大きく右にまわりこんで登りきったところで突然にその視界が開けた。
そこはもう山頂。左右に広がる尾根の連なりが見渡せる場所だった。
山道を出てすぐのところに、長年風雨にさらされていたことがありありと窺える木造(きづく)りの案内板が立てられていた。
右の矢印は穀物の神様が祀られているという神社を指しており、左の矢印は、この山の名所のひとつともなっている滝を示している。矢印の下に、そこまでの距離が書かれていたので、目を凝らして見てみたが文字の擦れがひどくて読み取ることはできなかった。
男は、肩で呼吸(いき)をしながらデイパックから一枚の地図を取り出した。破れかけた折り目をセロハンテープで補強してあるような、見るからに古ぼけた粗末な地図。丁寧に、こわれものを扱うようにして広げると、まるで宝の在処を示すかのように一本の線が、とある道をなぞって引かれていた。その線は、元は赤い色のサインペンで書かれたものだろうが、退色して滲んだように擦れ、今は年季を感じさせる海老茶色の線と化している。
男は、その線でなぞられた道を目で追いながら今居る場所と道筋を確かめた。
――間違いない。地図のとおりだ。
しかし、おやじが話していたあの時からかなりの年月が経っているというのに、その頃の地図から何も変わっていないというのは不思議な感じだった。
自然というのは偉大なものなんだなあと、そんな当たり前のことをぼんやり考えながら男は尾根の道を進んだ。
進みながらこの地図を初めて見たあの日のことを思い出していた。
――二年ほど前のことであった。母親の三回忌の夜。
親戚の者たちも帰り、急に静かになった茶の間で、おやじはめずらしく酔っ払っていた。
客たちが帰ったあと、湯飲み茶碗で、手酌しながら一人酒を飲んでいた。
「なぁ、はやいもんだな」
お客用に置いた大きめのテーブルの上に片肘をつきながらおやじは言った。
「ん?」
残りの片付けをしていた俺は、その言葉に振り向いた。
「それ、もう明日でいいから、おまえもこっちきて飲めよ」
「ああ」
こんなに小さく見えるおやじは初めてだった。テーブルの向かいに座って、おやじが酌してくれた酒を口にしながら、妙に寂しい空気が流れていたのを覚えている。