「何か記念に残して置きたいって、母さんが思いついたように持ってた小さなノートを持ち出してな、メモ書きとか書いて使用済みだった始めのころのページを綺麗に切り取って、『このノートにお礼のメッセージを書き残して置いていこう』っていうんだ。この小屋で雨宿りをさせてもらったことへのお礼と、りっぱな連理木に出会えたことのお礼を、まだ使っていないきれいなページに書き残して、小屋の中のしつらえの棚の上にそっと置いてきたんだ。『もし、この小屋を次に使った人たちが、私たちのメッセージに続いて、何かまた、このノートに書き残してくれたら素敵だよね』とか言いながら……あのノートも、そのあとどうしたかなあ……
ここが、その場所なんだ」
目の前に広げた地図の、海老茶色でなぞられた線の終着点。目的地を現すように丸がつけられたその場所を指しながら、おやじは言った。
「結婚して、おまえが生まれてすぐくらいに、父さんの仕事の都合でこっちに来てしまって、それっきりあの場所には行ってないんだ。あの日の登山で使って、そのまま持ち帰ってきたこの地図に、あの場所と道順を赤い線でなぞって引いて、『いつか、もう一度行ってみたいね』ってよく話していたんだ。何かある度に、この地図持ち出してきて、二人で眺めながら、いろんな話をしたもんさ。おまえのこともいっぱい話したんだぞ。『今度は三人であの山に登りたい』なんてこともよく話したよ。こんなに古ぼけちゃったけどな……
だけど、その約束をとうとう守れなかった。母さん、死ぬまで連れて行ってやれなかった。ごめんな……。俺は、だめだなあ……母さん、ごめんな……」
それ以上の言葉は聞き取れなかった。おやじは、口の中で何かもごもごとつぶやきながら、海老茶色に変色した赤い印を右手の人差し指で指し続けたまま、左手を枕にするようにして、テーブルの上に突っ伏していた。こんなに潰れるまで酒を飲んでいるおやじを見たのも今夜が初めてだった。
「風邪引くぞ、ふとん敷くから、そっちで寝なよ」
そう言いながら、肩を数回揺すったところで、おやじは、急に顔を上げたかと思うと、俺の顔をまじまじと見つめながら、擦れたような消え入りそうな声で一言言った。
「今度、一緒に登ろうか……」
そう言うなり、そのままテーブルに顔を伏せて眠り込んでしまった。