そんな或(あ)る時、順次の中学の同窓生が数人、都会から帰って来た事があった。川桁の駅前で同窓会を開こうという話が持ち上がり、都会に出ての成功組を発起人メンバーに、宴席が設けられた。川桁駅前の、順次が給料日にだけ食べに行く食堂の二階の座敷の会場に集まった面々は、もう立派な社会人だった。都会に出ての成功組は一人残らず落ち着いた背広で、鞄も黒々とした新しい革製のもので中には手巾(ハンカチ)なんかもっている人間も居た。これが八、九年前には腰に手拭をぶら下げて、夏は半ズボンにシャツ一枚だったのが到底信じられない。また川桁や会津に残留した人間達でさえ、ここぞとばかりにそれなりに立派な衣服を身に付けていた。背広ではないにせよ真新しい白のワイシャツとスラックス、そして取り出す財布も、中身がどれだけ入っているのかは分からないが、それでも外観は取り敢えず立派なものである。髪も綺麗に後ろに撫で付けている。
そんな中、順次の外貌は全くの純然たる労働者だった。さすがに軌道会社の運転士の制服でも、順次の普段着の作業服でもなかったが、父親から譲られた脚の長さが合っていない、最早表面が起毛した様な状態になっていたズボンに、かなり古くなったワイシャツ、何より順次は中学生以来の腰手拭の姿のままだった。財布に到っては、猛烈に時代がかっていて、江戸時代の巾着袋そのままだった。これは順次があまり紙幣を持ち歩かない事の良い証明だった。これらの人間達と順次の間には、明白な収入の格差があったのだ。それが残酷な迄に現れていた。そんな順次の衣装を見てか、或いはそれ以外の理由でか、誰も順次には声をかけてくれなかった。しかしその時点迄は、順次は特に何も思わなかった。皆の大人になった姿を、ただ眺めていたに過ぎなかった。
そこに、一組の男女が入って来た。順次は驚いた。女の方は、順次が軌道の川桁駅発車から暫く落ち着く事が出来ない原因たる、物干し台の綺麗な娘だったのである。綺麗で真白な洋装の姿だった。薄いレースの手袋まで嵌めている。男の方は、都会に出て行った順次の同級生のうちの一人で、顔は知っていた。立派な服装だった。二人は落ち着いて部屋に入って来て、娘の方が一際目立つ順次に直ぐに気付き、軽く頭を下げてにこりと笑った。座の司会役の一人が言った。
「やあやあ、やっと来たかね」
「遅れて悪い。彼女の御両親に挨拶して来たのでね」
「そうかそうか。で、了解なのかな」
「ああ」
そう言って、男の方は娘を見詰め、娘は恥ずかしそうに俯いた。司会役が言った。
「えー、皆さん。此度、吾等の友人の山田君が奥さんを貰う事になりました。此の野郎ー」
此処で一同がどっと笑った。
「山田君は東京に出て暫く良い就職口が見付からずに悶々としていましたが、三年前に大きな会社に勤める事が出来ました。すると彼の能力を認めた見識有る上司の力で、彼はとんとんと出世して、今や部下三十人を従える課長さんなのです。此の野郎ー」
今度は『ほほー』という感嘆の声が、其処彼処から上がった。