順次にとっては本当にそうだったのだ。給料日にしか入らない川桁駅前の食堂で飯を食べる愉しみも、白木城駅近くでいつも遊んでいる小さな仲良しの兄妹が時々だが喧嘩しているのを観るのも、そして通学に乗って来る若者の素直で真直ぐな夢も、またそれが本当に実現する事の難しいものである現実も、子を街に送る親の悲哀も、そしてそれをよく判っている優しい子の孝心も、全てが順次にとって必要なものだった。
順次は運転士として働く毎日の中で、何か出来事があれば、否、何も無くても想った事を、家に帰れば必ずその日のうちに、自分の両親に話した。
「父ちゃん、母ちゃん、今日ね、こんな事があったよ」
「そうか、それでお前はどうしたんだい。どう思ったんだい」
順次が、これこれこう対処したとか、こう思ったとか言うと、いつも母親は嬉しそうに笑っていて、父親は一通り順次の話を聞き終わった後で、短く、
「それでええ」
と言うのだった。
しかし一つだけ順次が両親に言わない事があった。川桁の駅を発進してから直ぐに線路の左右に粗末な家が立ち並んでいるのだが、その中で川桁側に物干し台がある二階建ての立派な家があった。其処でよく順次は物干し台に洗濯物や布団を干している綺麗な娘を見掛けるのだった。此れも最初は、別に視ようとしていた訳ではない。進行方向直ぐ左手にそういう家があるのだから、運転士として前方注意を守っていれば、否応なしに目に入るのである。ところが毎日定期的に出会うと気になり出す。此れも仕方が無い事なのだ。順次の罪ではない。そのうち此の物干し台の綺麗な娘は、順次に会釈する様になった。順次は此れがどうにも、いつも気になっていたのである。まあ気にするなという方が無理だ。何しろ相手は綺麗な娘なのだし、別に列車を運転している順次に向こうから挨拶する義理などないのに挨拶してくるのだから。ふと順次は思いついて、或(あ)の立派な家の娘が軌道会社の関係者か否かを、さり気なく同僚に尋ねた。
「なあ、或(あ)の立派な家って、此の会社の関係者の家かな」
「いいや。御前、どうしてそんな事を訊くんだ」
「いや、此の辺では一番立派な御屋敷だろう? だから……」
「或(あ)の家は若松の大きな会社の社長さんの家だ。うちの会社とは関係無いぜ」
順次は気にもしながら、毎日仕事を続けていた。不謹慎な話であるが、川桁出発の時は幾分落ち着けない順次だったが、此の娘の家を通り過ぎるとその分運転に全神経を集中させる事が出来た。順次は淡い期待を抱きながら過ごしていたのだった。