覚悟はできていたので実感は直ぐに湧いた。そしてトイレで一人になると年甲斐もなく声をあげて泣いてしまった。ペットショップの狭い世界を飛び出し、初めて我が家へやってきた幼いキクジロウの戸惑った姿が目に浮かんだ。そうなると止めどがなかった。春一番に吹かれて心地よさそうに目を細めるキクジロウの横顔、真夏の畦道を短い舌を出しながら力強く走るキクジロウの息づかい、少し焦げ臭い落ち葉道を恐る恐る踏み歩くキクジロウの小さな足音、雪の積もる寒い散歩道で情けなく縮こまるキクジロウの白い尻尾。今まで忘れていたようなキクジロウの姿が、記憶が、涙とともに次々と流れ出てきた。あの白くきれいな毛並みに触れることはもうできないのだ。私はキクジロウを失ってしまったのだ。彼のいない世界がそれでも続いていくということが私には不思議でならなかった。
その日は全くの放心状態だった。手に着かない仕事をなんとか終え、予定していた飲み会もキャンセルして、私は急いで実家へ向かった。
冬の気配がする寒い日だった。キクジロウは冷たい廊下の隅で、いつもの座布団の上に横たえられていた。軽く掛けられた薄い毛布から覗いている彼の表情には、昨夜の苦しみから解き放たれた安らかな静けさがあった。ゆっくりとその毛布をめくると、頼りない彼の亡きがらが現れた。すでに氷のように冷たく硬くなったキクジロウは、昨日見た時よりも驚くほどに痩せて小さく見えた。いつのまにか彼がここまで小さくなっていたことに、この時初めて気がついた。
「きっと今日の明け方だったんだろうね。朝目が覚めるといつもの座布団の上にいなくて。探したら廊下の隅で冷たくなってて…」
母によるとキクジロウが倒れていた場所が、座布団の置かれているこの場所だということだった。
彼を見つけた時はまだ少しだけ温かかった、口の中には昨夜のドックフードがまだ残っていた、きっと苦しかったのだろう、すこしうんちをしていた、でも量は少なかった、きっと胃の中はほとんど空っぽだったのだろう、そんな母の話を一つ一つ聞きながらキクジロウの疎らに黒ずんだ体を撫でていると、涙がこぼれて堪らなかった。母も泣いているようだった。
「わたしの誕生日だったからかな」
私はそこで昨日が母の誕生日だったことを思い出した。もしかすると、キクジロウはそのことを知っていてその一日だけをなんとか乗り切ろうとしたのかもしれない。最後の最後にドックフードと少量の水は口にしたのも、家族を心配させまいとする彼の思いの表れだったのか。そして家族を気遣い私たちに看取られることを拒み、冷たい廊下の片隅でたった一人でひっそりと死んでいったのだ。私はキクジロウが居間からこの廊下まで歩いてきたことが信じられなかった。あんなに耄碌していたじゃないか、あんなに苦しそうだったじゃないか、足だってこんなに細くなってしまったじゃないか。私はキクジロウの最期の強い意思を思った。
それでも、と私は思う。それでも死ぬときは私が傍で手を握っていてやりたかった。一人で死んでいかなければならなかった淋しいキクジロウに、私が寄り添っていてあげたかった。その悔恨は今でもある種の後ろめたさを伴って私の胸に去来する。