9月期優秀作品
『白の記憶』東泰山
懐かしい匂いがした。忘れかけていた過去のあれこれを、僅かばかりの後ろめたさと気恥ずかしさと温かさを伴って私に思い出させる、そして秋の到来を仄めかす、そんな涼やかな風の匂いだ。私は立ち止まり、その涼風を胸一杯に吸い込む。
いつの間にか雨は上がっていたことに気が付いた。雨滴を払い傘をたたむと、雲間から覗く鮮やかな夕日が私の目を細めた。突然の感慨によって止められてしまった足を再び踏み出し兼ねていると、歩道の正面から五十代半ばくらいの男性と小さな犬がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。犬は歩幅の小さい足を一生懸命に動かしている。彼は時々忙しなく振り返っては、男性の様子を気にかけているようだ。まるで「自分がこの人を散歩してやっているのだ」とでもいうような態度だ。それがなんとなく頼もしく、そして懐かしかった。真っ白い毛並みが柔らかく風に揺れている。まだ若いマルチーズだ。
「わんわん、来たねえ」
手を繋いでいるもうすぐ三歳になる娘が独り言つように呟いた。
「わんわん、かわいいねえ」
今度は私を見上げて少し大きな声でそう言った。娘は「わんわん」と何度も何度も呟きながら、立ち止まる私の手を引きマルチーズの元へ行こうとしている。
そうか、もう三年になるのだ。
その時も雨が上がったばかりで、茜色の夕日が雲間から覗き始めていた。喫茶店の窓際の席で、雨に洗われて燦めく街の景色をぼんやりと眺めていると、一通のメールが届いた。母からだった。
「キクジロウが危ないかも、いまどこ」
心臓がトンと鳴るのを感じるが早いか、焦燥に駆られ始めた私は急いで母に電話をかけた。
「キクどうなの」
「さっきからずっと震えて立ち上がれないの。朝の散歩の時は元気だったんだけど。三十分まえからずっとこの調子。もう十六歳だからねえ。小型犬にしてはもう十分よねえ」
私とは対照的に鷹揚な母の言葉を聞いていると、逸るばかりの気持ちが少しだけ落ち着いてきた。
「とにかくこれからすぐそっちに向かうから」
妻に事情を知らせる簡略なメールを送信し、片道一時間弱の郊外にある実家へと車を走らせた。休日の夕方の道路はいつもよりも混雑していて、落ち着きを取り戻しつつあった焦燥に再び拍車をかけ始めた。そんな焦る気持ちをなんとか落ち着かせようと、私は流れる渋滞の真ん中で、明滅するテールランプを眺めていた。そのうちに私の目には、青々とした田舎の畦道を走るまだ幼い頃のキクジロウの姿が自然と浮かび上がってきた。リードを解かれたキクジロウは、あの上に飛び跳ねるような独特の走り方で高校生の私と並んで息を弾ませている。澄み渡る青空の下、入道雲のようにむくむくと白いキクジロウはまっすぐに前を見つめ、力強く地面を蹴っている。そんな光景が蘇るのを皮切りにして、沢山のキクジロウとの思い出が溢れ出してくるのだった。