駄目な息子に対する心労が祟ったからだとしか思えなかった。母を安心させられる理想的な息子でないことへの罪悪感に苛まれ、そんな思いを一人きりで抱えなければならない孤独に押しつぶされてしまいそうだった。そんな折だった。ある晩キクジロウが小さな足音を立てて私の部屋に入ってきた。そして真っ直ぐに私に近づいてくると、徐に私の手を嘗め、さらにその手をゆっくりと私の手に重ねたのだった。ただそれだけのことだ。それでも確かに、彼は彼にしか出来ない方法で、悲しみと孤独に冷え切った私の心を暖めてくれたのだった。
今まさに、彼が死との孤独な戦いをしているのだと思うと居ても立ってもいられず、私は彼の左手を握り続けた。キクジロウが静かに死を迎えるその瞬間、あの日彼がそうしてくれたように、今度は私が彼の孤独を少しでも和らげたいと思ったからだ。たまに手が離れてしまうと、キクジロウは首だけ伸ばしてこちらを見てくる。虚ろで今にも消え入りそうなその目は「淋しいから離さないでくれ」と必死に訴えているように見えた。大丈夫だ、俺がついている。私は心の中で何度も呟き、キクジロウの左手を握りしめ、その来たるべき何かを待つしかなかった。
静かな居間に響くメールの着信音が、キクジロウに注がれる私の張り詰めた意識を弛緩させてしまった。どれほど時間が経過したのだろう。携帯電話を手に取ると、時刻は十時を過ぎたところだった。メールは妻からで、キクジロウの容態を案じた後、帰りは何時頃になりそうか、夕食は冷蔵庫に入れてあるといったことが簡単に書かれていた。その時なぜか、私がここにいるのはキクジロウの回復を待つためではなく、キクジロウの死を待つためなのだということを強く意識した。その意識はキクジロウを裏切っているような心持ちにさせ、私に微かな自己嫌悪を起こさせた。
「明日も仕事で早いし、今日は多分大丈夫そうだから、そろそろ行くわ」
それは明らかな自己欺瞞だった。私は言葉でそう言ってはいたが、これが最期になるだろうと分かっていた。屈折した自分の感情とキクジロウの死とから私は逃げ出したのだ。私を目で追うキクジロウを背にして、私は実家を後にした。
自宅に到着し車を駐車すると同時に携帯電話がなった。母からのメールだった。
「キクジロウ、少し落ち着いたみたい。さっきドックフードを少しだけ食べて、水も少し飲みました。今日はもうわたしたちも寝ようと思います」
私は携帯電話をしまうと車から降りた。キクジロウが死ぬかもしれないのに、今にも泣き出してしまいそうなのに、見上げた晩秋の星空は言いようもなく美しかった。
翌朝目覚めると一通のメールが届いていた。母からだった。
「キク死んでた。昨日来てもらえて良かった」