「ごめんね。急いで夕飯つくるから」と妻が続けた。
台所で料理する妻に「お母さん」と、後ろから花子が小さな声で呼んだ。
「なあに? 」ふり向き清美は応えた。
「今朝言ったことなんだけど… 進学しないで働こうかなってね」
「そうそう、どうしたのよ急に? お母さんびっくりしちゃった」
「……うん、だって。うち大丈夫なの? わたしには言わないけどほんとは苦しいんでしょ」
台所へいった花子のことが気になって、自分はそっと聞耳をたてていた。清美はなんて返すのだろう?
「あなたが心配することないのよ。塾へ行かせてあげれなくて悪いけど、わりかし良い高校行ける成績とってるんだから行かなきゃダメよ。とにかく大丈夫! 心配しないで」
「花子、そうだぞ」聞耳に堪らなくなった自分は口をはさんだ。
「おまえの言ったとおり正直いまは苦しい。商売でもなんでもだけど浮き沈み波がある。いままでだって苦しい時期はなんべんもあった。そのなかでも確かにいまはとくに苦しい。だけどな、お父さんとお母さん真面目に、お客さんに対して家族のように接してやってきたんだ。決っしてお客さんは離れていない。いや、逆に増えてるぐらいだ。いまを乗り切れば絶対大丈夫なんだから。おまえは心配するな。わかったか」
「うん、わかった」と花子はうなずいた。
「でもな、おまえが働きたかったらそれでも良いんだぞ。なんにも悪いことじゃない。お父さん反対しない。でも違うだろ?」
「うん」
「良しっ、頑張って勉強して高校行け。お父さんは頑張って歌うたって歌手になるからさ! それでヒットだしてガッポガッポだ。 どうだ安心したろ?」
「…… 」花子応えず。
自分は歌手の件、娘に冗談に言ったが、わりかし本気だったりもする。冗談だとしても、冗談から駒がでるかも知れない。
「お風呂が沸きました」と、給湯器がしゃべった。
最近電化製品やらなんやら矢鱈と話すやつが増えた。たまにおせっかいを感じたりすることもある。否、ちょくちょくかな。
「夕飯のまえに風呂はいってくるな」自分は妻に言った。
「今日は疲れたでしょ。入浴剤買ってあるから、いれてゆっくりつかってね」妻が言った。
妻が言ったとおり久しぶりに今日は疲れた。自分は「うん、そうするよ。ありがとう」と妻に返して風呂場へいった。
入浴剤を湯船に落とすと、シュワシュワシュワと発泡し、爽やかな柚子の香りが一面に広がり、鼻を喜ばせ気分をほっこりとさせた。これは確かに疲れがとれそうだ。自分は湯船に足をいれ、ゆっくりと肩までつかった。愉快である。自分も歳をとったもんだ。つい「極楽極楽」と自然に口にでた。それから自分で作詞作曲した〈うるわしきひととき〉を歌った。風呂場のなか良い具合に反響し、気分はいっぱしの人気歌手となった。