「子どもの頃よく来ただろ? 覚えとるか?」
「泳いだの、ここだっけ?」
「ふたりはよく砂山を作ったり、一緒にワニの浮かぶやつに乗ったりしてな。俺はひとり、テトラポットの傍で採集して」
「気持ち悪い海藻、いっぱい拾ってたよね。それ、覚えてる」
「……夏美さんも元気なんだろ?」
ぼそっと、父が口にした。
「……だと思う」
ぼそっと、紗希も返事する。
「『だと思う』って」
「ひとり暮らし始めてから、ずっと話してないんだ」
「喧嘩でもしとるんか」
「そういうんじゃないんだけど、おか……、夏美……、あの人も忙しいみたいだし」
「『あの人』って」
家で呼びかけるときは、ほとんど「ねえ」だった。自分の中では「夏美さん」で、友だちに話すときもそうだった。もう何年も「お母さん」なんて使ったことがない。夏美に向かって、夏美さんと叫んだことも一度だけあった。
「そっか。相変わらずか」
スピードを緩め、父が駐車場へ車を入れる。
あの人は夏美さんで、それが紗希の感じる正しい距離だった。
バイトから戻ってくると、日曜日だったからか、夏美はまだ夕飯も食べずに待っていた。
「紗希も食べるでしょ?」
食卓には珍しく大好きなエビチリが乗っている。流しに浸かっている鍋から察するに、出来合いのものではないようだ。お腹がぐうと、喜びの声を上げる。
「……うん」
興味ないような返事をし、紗希は自分の箸を出すとお椀にご飯をよそった。
ワカメスープまでできている。
夏美が束のような資料を取り出したのは、「残りは紗希、食べちゃいなよ」と、自分の食器を流しに運び、ビールから日本酒に移ったときだった。
高校二年の秋。
バイトのお金が幾らか貯まり、このまま高校を卒業したら就職するのもありかなと思い始めていた。
「なにこれ?」
その資料が大学の入学案内だと分かると、紗希は慌てて目をそらした。残っているエビチリをかき集め、皿を持ち上げご飯の上に落としていく。
「幾つか取り寄せてみたんだけど。いいんじゃないかなって。紗希ならどれでも、行けるでしょ」
夏美が資料を扇状に広げる。その中には、海外の大学も幾つか入っている。英語で書かれたパンフレットを見つめながら、紗希は「で、学費くらいは出してくれるの?」と半ば嫌みっぽく言ってみた。
塾に行くお金も、英会話に通うお金も出してくれない。これまで紗希のやりたいことには何一つ協力的ではなくて、自分でお金を稼いでやれと言いながら、進路だけは自分の考えを押し付けてくる。
イラッとした。
卒業したら自分の好きに生きる。夏美のために生きてきたんじゃない。夏美の指図する人生を進むなら、夏美がお金を出すのが道理だ。