中学生になり、テニス部の入部届けに夏美のハンコをもらおうとしたときだった。
半額シールの貼られたお弁当をレンジに入れると、夏美は左手を腰に当て、ぐいっと発泡酒を飲む。その後ろ姿に、紗希は「ねえ」と切り出した。
「いいけど、ラケットどうするつもり?」
夏美はカバンから分厚い書類を取り出し、食卓に置きっぱなしになっている参考書の横に置く。
「靴だって、それ専用のがいるんでしょ?」
夏美のそんな言葉を紗希は想像していなかったわけではない。でも他の子が当たり前のようにしてもらっていることを自分だけがしてもらえない、なんてことは信じがたかった。
裕福ではないのは分かっている。
夏美が仕事から帰ってくるのはいつも遅く、それでも毎朝、自分のお弁当と紗希の夕飯を作ってから会社に行く。週末の午前中には紗希も手伝わされて家の掃除をし、午後からは大抵、夏美はパソコンに向かっていた。
「お父さんに買ってもらう――」
その言葉を口にしたとき、夏美は初めて紗希を見つめた。無表情で見つめてきた。笑っているのでも、怒っているのでもない顔が一番恐ろしい。
「勇一さんから金銭的援助してもらうの、ダメだからね。そういう約束だから」
「わたしはそんな約束――」
「テニスではないといけないという、確固たる理由を提出してください」
「みんなそれくらい親から――」
夏美は淡々と続ける。
「納得できる理由があるならいいわよ。他にも部活、いろいろあるんでしょう? なんでテニスなの?」
立て続けに尋問されると紗希は黙ってしまう。これまではこういうとき、決まって父が助けてくれた。父がいないときは祖母がいた。味方ができると、何だか急に安心して勝手に涙があふれてきた。
今はもう、誰も助けにきてくれない。
次の日の放課後、一緒に入ろうと話していた同級生たちに、紗希は「わたしは地域のサークルとかも考えてみようかなって」と嘘をついた。みんなは「へぇ、そうなんだ。すごいね」と、そんなサークルがあるのかどうかも疑わずに驚くと、じゃあねと教室をあとにする。
ひとり教室に取り残されると、自分は何だか棚の奥に残された商品のような気持ちになった。まだ父の実家にいた頃、近所の駄菓子屋に行くと、そこにはいつも外箱の色褪せた靴やボードゲームが隅っこに置かれていた。それらをチラッと横目で見ながら、よく紗希はレジ近くのお菓子を買ったものだった。
夕方のまだ明るい校庭に比べ、学校という大きな棚の奥は薄暗くなっていく。その隅っこにいる紗希に気づく生徒なんて、校庭には誰もいない。