ドア横に自転車を止め、壁にはりつく白色のドアに鍵を入れる。
家賃を抑えた女性専用アパートは、その代償に駅まで徒歩15分かかった。周りはほとんどが一軒家。どこかの地主が手放したのであろうこの一角だけに、同じようなデザインの二階建てアパートが三棟並んでいる。
今年の三月、大学の入学手続きと同時に物件を探した。引っ越しの日も夏美は仕事で、朝早く「頑張ってね。行ってらっしゃい!」と、誰に向かってなのか分からない言葉を玄関先で叫ぶと、いつもの朝のように出勤していった。
洗面台の下を開け、ドライヤー、替えのタオルの横に詰め替え用のシャンプーとコンディショナーをストックする。鏡の後ろには、独りぼっちだった歯ブラシに妹たちを加えた。
外装を剥がし、芳香剤をセットする。
その新しい、濃い香りを吸い込むと、紗希は「はっくしゅん!」と思わず噴いた。
懐かしい、でもそれがどこか息苦しい、夏美のアパートの香りだ。
あの頃のことは思い出したくないと、一人暮らしを初めてすぐは、違うブランドの違う香りを置いてみた。ここは自分のアパートで、ここから新しい、自分の生活がスタートする。
それが新鮮だったのは数日だけで、トイレはすぐによそよそしい、他人の家の空間になった。夏美がいないときはいつも、トイレの中で過ごしていたからだろうか。
夏美と暮らしたアパートは決して広くなかった。広くなかったとはいえ、都会の真っ直ぐな夕日が差し込む部屋に独りなのは寂しくて、紗希はトイレの中で宿題をした。本を読むのもトイレだった。模試の結果と照らし合わせ、一喜一憂してはトイレの水の流れに叫んだりした。
石鹸も、洗剤も、お醤油も牛乳も、これまでとは違うもので何の問題もなかったのに、トイレの芳香剤だけは、これまでのそれじゃないと落ち着かなかった。
父に会いに行こう。
そんな考えがふと頭に浮かんだのは、紗希が試験勉強の息抜きに観光雑誌を眺めていたときだ。南国の碧い海を見たとき、子どもの頃みんなで行った海水浴場がふっと思い出される。
さっそく便箋を取り出すと、紗希はペンを走らせた。
父と連絡を取り合うときは必ず手紙だった。電話はかけない。離婚の際の、それが夏美と父の約束のひとつだったらしい。お正月、誕生日、夏休み。少なくともその三回には必ず手紙を交換した。修学旅行のときには、旅先から送ったりもした。
会いに行こうと――
その言葉を書くときには、さすがにドキドキした。チラッと時計を見て、それからペンを持ち直す。
夏美には言わないほうがいい気がして、最後に追伸として、内緒にしておいてくださいと書き足した。