「ただいま、たんぽぽ」
帰宅の挨拶をする相手がいることは、司の心を暖かく満たした。僕の事を待っていてくれる家族がいる。それだけで、家に帰るのが何倍も楽しく幸せなことになっていく。
妹が出来た毎日は、司の心にいつの間にか宝石箱を作った。中には、赤や青や緑の美しい宝石が入っていて、宝石の一つ一つが、たんぽぽとの思い出で光っている。
両親が仕事などで居ない時は、司が一人で散歩に行くようになった。すっかり散歩に慣れたたんぽぽは、『さんぽ』と言う単語を聞くと、小さな尻尾を扇風機みたいにぶんぶん振って司に飛びついた。
「今日は涼しいから、少し遠くまで行こうか」
ある時、学校の近くまで行ってみた。いつもより歩きやすかったけれど、子犬には長い距離だったようで、はじめはご機嫌だったたんぽぽも疲れてしまった。司を見つめて「くぅ~ん、くぅ~ん」と鳴きはじめる。司は慌てて、たんぽぽを抱っこした。
「たんぽぽには、この距離は長かったね。ごめんね……」
仔犬は大人しくなったが、司は後悔した。
「あれ、一ノ瀬じゃん!」
不意に背後から苗字を呼ばれて、司は反射的に振りむいた。同級生の西野くんが、自転車を跨ぎながら止まって、こちらを見ている。西野くんは運動神経が良く、面倒見が良い子供だ。
「仔犬? 可愛いな、触らせてよ」
そう言いながら、自転車を停めて近づいてくる。たんぽぽの頭を軽い手つきで撫でながら、こう続けた。
「俺も、犬を飼ってるんだ」
「えっ、そうなの! どんな子?」
それから、西野くんと犬の話で盛り上がった。彼の飼っている犬は、豆柴の男の子。今年で十歳になるらしい。司は初めて犬を飼った事を言うと「初心者で分からないことばかりだよ」と照れたように言った。
「じゃあ、俺の知ってることを教えてあげるよ」
西野くんが、得意そうにそう言う。逆に幼い笑顔だったので、司もつられて微笑んだ。
「……司が家に帰って来ないの!」
ママは電話口に向かって、悲鳴のような声をあげた。
「良く探したのか?」
「ええ、いつもの散歩コースは探して来たし、近くにコンビニも行ったけど……うん、いないのよ……」
ママは涙を堪えながら、途切れ途切れに話す。カーテンの隙間から、いつもより深い夜の闇が、不気味に顔を覗かせていた。壁掛け時計を見ると、針は時を刻み続け、すでに夜の九時をまわっている。彼女がパートから帰ると、我が家に息子の姿が無く、司の机に貯金箱が転がっていた。見ると底面にあるゴム製の蓋が取られて、中身が空っぽだった。