「べつにいいよ、しーちゃんは。なんにも気にしなくて」
「ううん違う、気にしてるわけじゃないの」
「そう。ならよかった」
ならよかった、と言って下を向くお兄ちゃんが、何を考えているのかは分からなかった。分からないけれども、お兄ちゃんが何かを考えていることだけは分かる。だってお兄ちゃんは私のお兄ちゃんで、兄妹だから。それなのに何か考えているお兄ちゃんに何か言ってあげられる言葉が見つからなくて、下手に口を開けばまた言ってはいけないことを言ってしまう。今までのお兄ちゃんもそう。私はお兄ちゃんのことを何にも知らないまんま、名前も知らなくて、お兄ちゃんだけが私を知っている。小さい頃、しーちゃん、と優しく呼んで、頭を撫でくれて、迷子になりそうになれば手をひいてくれた優しいお兄ちゃん。そのお兄ちゃんの顔や声が、私にはどうしても思い出せない。何人目のお兄ちゃんだったかも分からない。とにかく私のお兄ちゃんは百円だった。それだけを覚えている。百円のお兄ちゃん。どうしてお兄ちゃんはいつだって百円で買えて、いつかどこかへ行ってしまうのだろう。それが悲しい事なのかどうか、私は私にうまく説明ができない。だから悲しくもなれなくて、お兄ちゃんが目の前いるのを見ながら、ただ見ながらお兄ちゃんの名前を知りたいとだけ思う。
お兄ちゃんと話をした次の日、学校から家に帰ってくると、お母さんがちょっとびっくりするくらい慌てていて、どうしたの、と聞けば、お兄ちゃんがいなくなった、と言う。いつも急にぱっといなくなるじゃない、と言ってもお母さんはずっと慌てたまま泣きそうな目でどうしよう、と部屋の中を歩き回るので、これはいつものお兄ちゃんが入れ替わるときとは違うのだ、と気がついて、私は昨日お兄ちゃんと話したことを思い出した。
「どうしよお母さん、お兄ちゃん、私のせいかも」
と小さな声で言ったが、お母さんは聞こえてないみたいで、
「しーちゃん、お兄ちゃんが行きそうなところ、分かる?」と聞いた。
その後、二人で外に出てお兄ちゃんが行きそうなところ、といっても二人ともお兄ちゃんが行きそうなところなんて分からないから、お兄ちゃん、という人が行きそうなところを各々想像して探しまわったのだけれど、どこを探してもお兄ちゃんは見つからなかった。ゲームセンターとか公園、スーパーに映画館などを見て回ったけど全然見つからないし、そのどれもが的外れなような気もした。結局お父さんが帰ってきてからもしばらくみんなで探したけど、やっぱり駄目だった。警察に届けましょう、とお母さんが言ったけれど、お父さんが、それはやめておこう、とお母さんを制した。どうして駄目なのか、とはお母さんも私も聞かなかった。お兄ちゃんを探しながら暗くなった街を三人で歩いているうちに、私は段々悲しくなってきた。何を悲しんでいるのかは分からない。お兄ちゃんがいなくなったことかもしれないし、そうじゃないことかもしれない。お母さんとお父さんを交互に見ていると、やっぱり悲しさが溢れてきそうになって、前を向いていられなくなる。ぽたぽたとアスファルトに水滴が落ちて、それが私の落とした涙かと思っていたら、雨が降ってきてぽつぽつと同じようにアスファルトを濡らしていくので、私は自分が泣いているのかどうかも分からない。お母さんとお父さんは何かを話している。お母さんが泣きそうな顔でお父さんに何かをずっと訴えている。あの子に何かあったらどうしよう。というようなことを言っている。お父さんはただ黙って、お母さんの肩に手をやって、優しく撫でている。何度も何度も、丁寧に、優しく撫でている。私はそれを見て、お兄ちゃんが私の頭を撫でている様子を思い浮かべる。泣いている私の頭を、いなくなってしまったお兄ちゃんが何度も撫でている。それは死んでしまった私の本当のお兄ちゃんなのか、それとも百円のお兄ちゃんなのか、小さな私は目が涙で霞んでいてよく顔が見えないから分からない。というより、もし顔が見えたとして、私は本当のお兄ちゃんの顔を知らないし、百円のお兄ちゃんの顔もよく覚えていないから分からないのだ。私はたまらなくなって、お母さん、と声を出す。けれども、お母さん、と出した声はお母さんに届かず、代わりにお母さんの肩を撫でていたお父さんの手が少し止まった。私はもう一度大きな声で、お母さん、と言う。涙目のお母さんが私の方を振り返り、同時にお父さんも振り向いた。どうして、お兄ちゃんを買ったりするの、と私から声が出て、お母さんは黙ってこっちを見ているだけで何も言わないので、私は何にも言わないお母さんに向かって、お母さん、ねえお母さん、どうしてお兄ちゃんを買ったりするの、ともう一度聞いた。それでもお母さんは私を見つめているだけで何も言わない。ねえお母さん、聞いて、お母さん私はね、私はお兄ちゃん、欲しくない、うそ、お兄ちゃんは好き、だから欲しいけど、でもお兄ちゃんは、お兄ちゃんはすぐいなくなるし、ねえあれはなに、お兄ちゃんがいなくなるあれはなに、私は分からない、だってお兄ちゃん、分からないけど、お兄ちゃんも私はかわいそう、お兄ちゃんが私はかわいそう、どうしてお母さん、どうしてお兄ちゃんを買うの、どうしてお兄ちゃんを買ったりするの、と擦れた声を振り絞ると、お母さんが目を真っ赤にして、違うの、しーちゃん、お兄ちゃんはね、しーちゃんね、お兄ちゃんは、違うの、そうじゃないの、と言ってから声が続かなくなってしまい、それに対して私は、だってお兄ちゃん、分かんない、私だってお兄ちゃん、別に欲しくないわけじゃない、でもどうして、お兄ちゃんだって悲しい、百円なんて、安すぎる、安すぎると思う、ううん違う、百円とか、安いとか高いとかそういうんじゃない、私はお兄ちゃんが好き、お兄ちゃんがかわいそう、と発作のように口から言葉が溢れ出てきて止まらなくなった。自分が何を言っているのか言いたいのかも分からず、言葉だけが出てきて止まらなかった。それを見るお母さんは涙で赤くなった目で、何か言おうとしている口がぱくぱくしているだけで音が出ない。何も言わないお母さんのことを見ているうちに、私も唇が震えてうまく声が出せなくなって、次第にお母さんと私はまるで親子のように口をぱくぱくと動かし合いながら、サイレント映画のように私たちは会話をしていった。いったい何を話しているのだろう。それがお母さんにも私にも分かるようで分からないのか、ぱくぱくと動かす口のタイミングがうまく合わなくて詰まったようになる瞬間がある。それを見ているお父さんは、お母さんの肩を撫でていた手の反対の手を使って私の肩を撫でる。しばらくそんなやり取りが続いてから、お父さんが、もう帰ろうか、と声をかけて、三人は家に帰った。