家に帰ると、これは驚いたけど、いなくなっていたお兄ちゃんが普通にリビングのソファーで座っていた。あまりに自然に座っていたので、本当にいなくなっていたのかどうかも分からなくなった。お母さんは、お兄ちゃんを見つけた途端に、駆け寄ってお兄ちゃんのことを抱いた。ごめんね、ごめんね、と何度も嗚咽まじりに泣きながら声をかけて、頭を撫でて、お兄ちゃんのことを抱きしめていた。抱きしめられたお兄ちゃんは、痛いよ、と言いながらお母さんの肩に手を少し置いて、お母さん、今までごめんね、と言って、されるがままお母さんにしばらくの間きつく抱きしめられていた。二人はまるで本当の親子のように、ずっとそうしていた。ちょっとしてからお父さんは二人の方に近づいていって、お兄ちゃんの頭をポンポンと撫でてから、二人の肩にそっと手を回して、耳元で何かを言ったみたいだったけれど私には聞こえなかった。お兄ちゃんはその後、少しだけ目を潤ませた感じになって、私はあんまりお兄ちゃんが泣いたり笑ったり感情を表に出す姿を見たことがなかったから、なんだかはっとして、そのはっとした私の目と、お兄ちゃんの潤んだ目が合って、これはよく分からないのだけど二人一緒のタイミングで、ちょっと笑った。どうして笑ったんだろう。でもきっと本当の兄妹ってこういう感じ。よく分からないし二人にも分からないけれど顔を合わせて笑ったりすることがあるのだと思う。
その後四人で夜ご飯を食べて、色んな話をした。結局お兄ちゃんはどこに行ってたの? と私が聞いたら、お兄ちゃんは散歩をしていたら知らないところまで行ってしまって、家まで帰る道が分からなくなったのだ。と言った。それを聞いて、お母さんも、お父さんも私も可笑しくて楽しくて笑ったけど、本当はそうじゃないことも多分みんな知っていた。いいや、うそ。本当にお兄ちゃんは道が分からなくなってしまっただけだったのかも。だから本当のことなんて、お兄ちゃんにしか分からないけれど、それでも四人は、楽しくてしょうがなかった。こうしてお兄ちゃんと一緒に食卓を囲んで、他愛ない会話をするのが楽しくてたまらなかった。お兄ちゃんも楽しそうだった。あんまり楽しくて、私は四人が家族であることを忘れてしまいそうだった。もしくはあんまり楽しくて、四人全員が、本当の家族ではないことを忘れてしまいそうだった。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんも私も、みんなそう思っていたと思う。お兄ちゃんが口に入れた食べ物を、笑った拍子に落としてしまったのを見ては、また四人全員で大笑いする。そんなのを繰り返しては、私たちは私たちに残された時間などのことを思って泣き出しそうになる。誰かが泣き出しそうな顔をすると、遮るように誰かが楽しいことを言ってまたみんなで大笑いする。だって泣き出したいようなときに泣き出しそうな顔をするなんて、そんな直接的な反応つまらない。だから笑って、そうそう笑って。と、私たちはお互いにお互いへ信号を送りながら、残された時間を有意義に、なんていう文句がふさわしいくらいに四人家族らしく、ごちそうさま、と声を揃えて食事を終了させた。
その夜、私は夜中にトイレに行きたくなって起きて下の階まで降りていくと、リビングの床を掃除するお兄ちゃんがいた。何してるの? と聞くとお兄ちゃんは、綺麗にしてる、拭き掃除終わったらワックスもかける。と言って手をまた動かした。なんだか珍しくて、お兄ちゃん、私も手伝おうか? と声をかけると、お兄ちゃんは首を横に振って、しーちゃんはいいよ、もう寝な、明日も学校でしょ。と言って二階の私の部屋に戻って寝るように促すので、分かった、でもお兄ちゃんもちゃんと寝なよ、と私は言って、部屋に戻って寝た。
次の朝、起きたらお兄ちゃんはいなくなっていて、それ以来、もう私の家にお兄ちゃんがやってくることはなくなった。お母さんもお父さんも、お兄ちゃんがいなくなったことを話したりしなかったし、もちろん私も二人にお兄ちゃんがいなくなったことを話したりはしなかった。話したりはしなかったけど、綺麗になったリビングの床を見て、ピカピカだね、とか、気持ちいいね、とかそういうことをお互いに言い合った。お兄ちゃんが綺麗にした床。とても綺麗だと思う。床を綺麗にしてくれたお兄ちゃんがどこにいったのか、私は分からない。これからもずっと分からない。だって名前も分からない。私のお兄ちゃん。今はもういない百円だったお兄ちゃん。安すぎたお兄ちゃん。もう会うことはないけれど、きっとどこかで、今もまだどこかで、お兄ちゃんは。そして私も。ここで。綺麗な床の上。