涼やかな声が響く。案内されて席に着いた。コーヒーと紅茶セットを一つずつ頼む。注文した品がテーブルに並べられるまでの間、ずっと私は彼女の姿を追っていた。目が合った。だが私の胸は少年のように高鳴ることもなく、いつもより少し高めぐらいの心拍数で収まっている。彼女が私に気づいた様子はなかった。当然とも言える。長い時間を経て、私の容姿もかなり変わった。一方、彼女には昔の面影が残っているように思える。年相応にしわや髪に白いものが目立つが、全体的にいい年の取り方をしているのが窺(うかが)えた。だが、普通の年配の婦人だった。それ以上にも以下にも見えなかった。
美晴と目が合った。口元に少し笑みを浮かべて私を見ている。私が何か言う前に、美晴は小さく首を振った。
「ありがとうございました」
声に送られて、店を出た。ふうっ。大きく息を吐くと、別々に流れてきた半世紀近くの時間が私の中で一つになった。来てよかった気もするし、悔やむ思いもある。ただ確実に言えることは、思い出が一つ終わったということだ。
車に乗り込むと、美晴はすかさず、
「さっきの人、おじいちゃんの好きだった人?」
と聞いてきた。
「まあ、そんなところだ。もうずっと昔のことだ」
「素敵な人だったね。声を掛ければよかったのに」
「いいんだ。気づかれなければ、それはそれでいい。自分からは決して名乗らないって、店に入る前に決めていたんだ」
「えっ、どうして」
「心の底に静かに沈めておいた方がいいこともあると言うことだ」
「何、それ」
美晴は不平な顔をする。
「昔、俺はずっとあの人に片思いしていたんだ。彼女はクラスの人気者で、私のマドンナだった。ずっと見ていたくて、時にストーカーまがいのことをやったこともある。結婚するって聞いた時は、やけ酒をあおったよ。でもしばらくして気づいたんだ。自分の生活が何も変わっていないことに。いつものように起きて、会社に行って、帰宅して寝て、休日には気の置けない友達と遊ぶ。そう、何一つ変化しなかったんだ。今、そんなことを思い出したよ」
美晴は神妙な顔をして話を聞いている。
「おばあちゃんはそんな友達の一人でな、ある時、いつも俺の側にいることに気づいたんだ。もしこの娘を失ったら、俺はどうなるだろう。そう考えたら居ても立ってもいられなくてな」
「付き合ってくれって言ったの? それともプロポーズしたの?」
先走る美晴をいなして話を続ける。
「その日から今日まで、ずっとあいつと一緒だ。死ぬまでな。花火のように激しく燃え上がるような恋はなかったけど、蚊取り線香のように静かに愛を燃やし続けてきたつもりだよ。夫婦になるということは、そういうことじゃないかな」
「もう。また無視した」
「だって、お前、おばあちゃんに聞いたんだろう」
「ううん。おばあちゃんも笑って教えてくれなかった」