9月期優秀作品
『蚊遣り』来戸廉
「蚊遣(や)り器、ないかな?」
私は、ソファーに座る後ろ姿に声を掛けた。居間と続き間の台所で捜しながら、娘に助けを求めた。妻が外出したことは知っていた。だが娘ならどこに何があるか、私以上にこの家のことは詳しい。
「カヤリ、キ? カヤ、リキ?」
人は知らない言葉にであうと、自分の語彙(ごい)の中から何とか似た言葉を選び出そうとするらしい。変な位置で区切って発音する声に少し違和感を覚えたが、それ以上気に止めなかった。
「蚊遣り香を焚(た)きたいんだ」
「カヤリコウ? だから、何? ねえ、聞いてる?」
その時、私は誤りに気づいた。娘じゃない。声の方を見ると、怪訝(けげん)そうな顔で振り向いた美晴がいた。どうやら娘も出掛けたらしい。そういえば夕べそんなこと言っていたのを思い出した。
美晴は、夏休みということもあり、所用で帰省した母親と一緒に昨日から来ていた。中学二年生になって、めっきり女性らしくなった。つい数年前まで――私の中ではまだ昨日のことのようだが――日に焼けて裸足で走り回っていた子が、背も伸びて色も白くなり淑(しと)やかな姿で玄関に現れた時は、とっさに美晴だとは分からなかった。
昨日はお互い気恥ずかしさもあり、話し掛けても短い単語が返ってくるばかりで、会話が少しも弾まなかった。もっと話したいのだが、なかなか話題が見つけられないでいた。それが私の早とちりによって、くしくもそのハードルを超えられたわけだ。もちろん美晴には母親と間違えたことを悟らせない。
「蚊取り線香のことだよ」
「もう。じゃあ、最初からそう言ってよ。カヤリキとかカヤリコウとか格好つけてないで」
美晴は、ちらっと私を見て、唇を尖(とが)らせる。こういう仕草や言い回しまで母親そっくりだ。ひとたび口を開けば成長はあまり感じられないが、たまに大人の女の顔をする瞬間があり、その時は孫と分かっていてもちょっとどぎまぎする。
「別に格好つけているわけじゃない。昔は普通にそう言ったんだ。お前、覚えていないか。ほら、豚の形をした焼き物の中に蚊取り線香を入れて焚いただろう、あれだよ蚊遣り器って」
「ああ、それなら知ってる」
「そうか。それならよかった。すこし安心したよ。でもお前達の世代にとって、蚊遣り器とか蚊遣り香という言葉は、とっくに死語なんだろうな」
「そうかもね。実際ウチには電子式の蚊取り器ならあるけど、蚊取り線香は使ってるとこ見たことないし」
美晴はスマートフォンを操作しながら、受け答えしている。それが無性に気になる。これの何がこの子をそんなに夢中にさせるのか、私にはさっぱりわからない。「それのどこが面白いんだ」と聞いたら、「おじいちゃん、古いんだよ」と一蹴された。
「そうか。でもな、蚊取り線香には凄い使い道があるんだぞ。あまり知られていないけどな」
「何、ねえ何?」