和彦は、「地元にも大学はあるのだから」とか「東京で一人暮らしなんかさせて羽目をはずすのが心配だ」などと言って、ろくに話も聞かずに反対した。娘が家を出るのは就職か結婚するときだろうと思っていた和彦にとって、あと数か月で由美が家を出るなどということは全く想像することができなかった。
「あいつ、やっぱり本気なのか?」
「うん。毎日遅くまで勉強してるし。あの大学だったら就職も有利だと思うよ。」
美奈子は完全に由美の味方だ。
「ちゃんとあの子の話聞いてあげてよ。」
「わかってるよ。」
そう乱暴に答えると、和彦は顔をしかめてビールを呷った。
それから三週間後の日曜日。美奈子の出発の日がやってきた。あのときは美奈子がいなくても大丈夫だろうと思っていたが、この三週間で和彦の自信はすでに不安に変わっていた。家事ぐらいできると言ってみたものの、洗濯物の畳み方、由美の好きな卵焼きの作り方、入浴剤がどこにあるのか、一つもわからなかった。共働きでありながら、これまで自分は何一つ家のことをやってこなかったのだという現実と同時に、美奈子の偉大さを思い知った。
「じゃあ、行ってくるから。由美、お父さんと仲良くね。ちゃんとご飯食べるんだよ。」
美奈子は靴を履き終えると、振り返ってそう言った。
「はーい、行ってらっしゃい。」由美が小さく手を振る。
「がんばれよ。」和彦が短く言う。
期待と不安を合わせたような表情の美奈子は、一つ頷くと、大きなスーツケースを引いて出発した。
玄関のドアが閉まると、家の中に静寂が訪れた。
「行っちゃったね。」由美がぼそりと言う。
「ああ。」和彦も小さく答える。
翌日、和彦は普段より一時間以上早く起きた。由美と自分の弁当を作るためだ。受験生である由美になるべく負担をかけないよう、家事は基本的に和彦がやろうと思っていた。今までは朝起きると三人分の朝食と弁当が用意されていた。いや、用意されていたのではなく、美奈子が用意してくれていたのだ。
美奈子の作る弁当にはほぼ毎日、シラス入りの卵焼きが入っていた。由美の大好物なのだ。シラスの塩加減と卵の甘みが絶妙なのである。和彦は何とかこの卵焼きを再現しようと朝5時から台所に立っているが、卵焼きを作るのがこんなに難しいとは思わなかった。フライパンの中の卵とシラスが「もう、いい加減にしてくださいよ。あなたに調理されるなんて、最大の不幸ですよ。」と和彦を責める。