沙織が謝ると、男は不機嫌そうに背を向けた。
沙織と美知は、男に近づかないようにしていたが、駅に着き、客が乗り降りするたびに、男のほうに押されていき、ついには美知が男の足の間に入るような格好になってしまった。沙織は何とかしたかったが、身動きが取れず、男の横顔に、すいませんと謝った。男は、ただ無言で不機嫌そうに少し頭を下げただけだった。
男は沙織たちが降りる一つ前の駅で下車した。
ほっとした沙織が、「押されて苦しかったでしょ」と美知の髪の乱れを直していると、「全然平気、だってあのお兄ちゃんが、守ってくれたから」と美知は言った。
よく聞いてみると、男の足の間に入るような格好になってしまったとき、美知が潰されないように足を踏ん張っていてくれたのだという。足が、狭まりそうになると、押し返していたのがわかったのだという。
それから男は、電車の中で美知を見かけると、近づいてきて庇うような態勢で美知を守ってくれるようになった。
マサオ君というのは、実は動物園にいる猿山のボスの名前だ。以前、動物園で見た猿のボスに顔がそっくりだと、美知が言いだしたのだ。ただ、本人の前で美知がマサオ君と呼んでいるのを、沙織は聞いたことはない。
駅につきマサオ君が降りていく。車窓から見ていると、マサオ君はホームで立ち止まり、胸ポケットから青色の折り紙を取り出し広げていた。電車が動き出すと、振り返ってこちらを見たが、表情まではわからなかった。
まさか、猿の絵を描いたのだろうかと考えながら、沙織は心の中で、今までありがとう、と呟いた。
電車が沙織たちの下車駅に着いた。
美知の後に続いて降りた沙織はホームを歩きながら、この三年間、沙織と美知を助けてくれた通勤電車の友だちを思い出し感謝した。
本当は、沙織と美知に手を差し伸べてくれた人はもっとたくさんいた。
沙織は、その人たちにも「ありがとう」と心の中で呟いた。
「美知」
見ると、美知の姿が見えない。
振り向くと、美知が、ベンチに座っている女性の前に立っている。
沙織が、そばに行くと、その女性の向こう側に三歳くらいの女の子が座っていた。
女性は沙織と同じ三十代後半くらいに見えた。
美知が「大丈夫ですか」と声をかけている。女性は疲れた笑顔を見せた。
女性が、沙織に顔を向け、
「子供を連れて通勤するって大変ですね」と言った。
沙織は「本当にそうですね」と応じながら、まるで、三年前の自分を見ているようだと思った。
そのとき、美知が、自分のリュックから亀のお守りを外して、「これがあれば大丈夫だから」と女性に差し出した。
沙織は、美知が大事なお守りを、困っている人に差し出す優しさを持つようになったことが、素直にうれしかった。
美知は「亀さんとブキさんとマサオ君がきっと守ってくれるよ」と言った。
女性は、美知を見てぽかんとしている。
沙織は、美知の優しさをうれしく思いながらも、この女性が亀さんやブキさんやマサオ君に会うことはないのにと思った。だが、すぐに、そうではないのだ、と考えなおした。きっと、この女性にとっての亀さんやブキさんやマサオ君に会えるに違いない。