「乾杯?」
「そう」
「乾杯って……」
「さあ、グラス持って」
木綿の寝間着でワイングラスを持つ夫の姿。その輪郭がぼやけ、目頭が熱くなる。さあ早く、という自分の声は隠しようもないほど潤んでいた。
「おい、どうした」
「いいから。ね、乾杯するの」
さっき買ったばかりのワイングラスが音をたて、竹子の目からは涙が溢れ出した。一口も飲まないまま狼狽している夫が愛しくて、可愛くて、早く伝えなければと思いつつも、しゃくりあげるようにして泣き続けた。
それから数分。やっと報せを耳にし、全てを理解した夫は「そうか」と呟きワインに口をつけた。泣き笑いの竹子は「うまいな、ワイン」という夫の呟きに、また目頭を熱くする。どうぞ、とワインを注ぐ手は震えていて、少しこぼしてしまった。慌てて台布巾で拭き、視線を上げると、夫は静かに天井を見上げている。
こんなにまじまじと、この人の喉仏を見たことなんてなかったわよね。
痩せて筋張った首に、髭の剃り残しが目立つ顎。肩の動きで息遣いが分かる。竹子は台布巾に手を添えたまま、その姿に見蕩れた。ゆっくりと喉仏が動き、聞き慣れた声が耳に届く。
「こんな感じがいいな」
「?」
「こんな風にさ、派手じゃなく、大っぴらじゃなく、そういうのがいいんだ」
言葉を切り、正面を向き直る。視線を合わせてくれないのは、照れているからだろうと竹子は解した。改めてそう言われるのはもちろん、言う方だって照れくさいはずだ。
「平穏に……」
同じ想いであると知ってほしく、小声でそう言い添えると、視線を逸らしたまま夫は「うん、そうだな」と頷いた。分かります、と相槌を打とうとした瞬間、「だけどね」と言葉が続く。
「だけどね、派手やかではない分、細く長く伸びていく。ね? ずっと続くんだ」
夫の横顔を見つめたまま、力強く「はい」と竹子は答えた。
この人の言うとおりだ。私たちは、ずっと続いていく。消えたり終わったりすることなど、決してあるはずがない。ちょっとだけだぞ、と新しく注がれたワインが泣き疲れた喉に染みる。
「まあ、そんな子に育ってほしいな」
噛み締めるように発した夫の一言で、竹子は自分の思い違いに気付く。そうか、お腹の子の話だったんだわ。
私たち二人の話だと思っていた自分が可笑しく、思わず頬が緩む。そんな妻の表情に気付いていたはずの夫は、何も訊かずにいてくれた。
あれから由希の歳と同じだけ、年月が過ぎていった。
竹子は今年、夫が亡くなった歳に追いついてしまう。もうずいぶん経ってしまったけれど、今更ながら確認したいことがあった。あの日の夫の言葉には、生まれてくる由希への想いだけではなく、やはり自分たち夫婦への想いも含まれていたのではないか。七畳半の部屋でひとり遺された妻はそう考えている。半身だけ記憶の中に置いてきた状態は、とても心地がいい。