数ヶ月前、珍しく酔って終電で帰ってきた日、ネクタイも外さず畳の上に突っ伏した夫は、どうにか着替えさせようと奮闘する竹子にこう言った。
「なあ、そろそろ広いところへ引っ越すか」
四十を迎えて確実に薄くなった頭頂部を熟視したまま、不自然に時間だけが流れる。どうにかおどけて「酔ってない時に、考えましょうね」と言うのが精一杯だった。
この人も終わりにしたいんだわ、と気が付いた。いつ産まれるか、ではなく、産まれてくるかどうかさえ分からない命。そんなものを待ち続ける生活に、この人も疲れている。
どうにか隣の部屋へ移動はしてくれたものの、結局ワイシャツを着たまま夫は眠ってしまった。うつ伏せの状態でセミダブルベッドに沈み込む姿を見ながら、竹子は心に誓った。次に引越しの話が出たら、私はその提案に同意しなくてはいけない。
哀しい決意だった。
でもそれによって完璧ではないかもしれないが、二人とも楽になれる。わざわざ苦しみをぶちまけ、分け合う必要などない。それぞれの方法で、お互い楽になればいい。ならば、せめて私の方から話を切り出さないと。それでないと、あの人に申し訳ない。
たしかにそう決めた。
でも、やはり言い出せなかった。きっと酔っていたから、あんなことを口走ったんだわ。そんな風に自分を甘やかしてしまった。私は、ずるい。弱いのではなく、ずるい。
今まで何度、そうやって自分を責めてきただろう。でも、そんなことはもういい。今日限りで全部忘れてしまおう、と意味もなく家の中を一周してみる。
ついに子供を授かった。
それでいいじゃないの、と姿見を覗き込み、笑顔で言い聞かせる。「そうよ、それでいいのよ」と、鏡の中の竹子が頷いた時、夫がやっと帰ってきた。
一日の疲れを風呂場で洗い流し、肌触りのいい木綿の寝間着に着替えた夫は、卓袱台の上に置かれたワインに目を丸くする。
「どうしたんだ? これ」
「いいから、座って。ね、早く」
夫があまりワインを好まないことくらい、竹子はちゃんと分かっている。でも今日は特別だ。いつもの瓶ビール二本と国産ウイスキーの水割りだけでは、この素晴らしい日を到底祝いきれない。
「このワイン、お前が飲むの?」
「ううん。私は乾杯だけでいいの」