当時からしてみれば遅い結婚だったこともあり、周囲には期待をしていないような振りをしていた。二人の間でも取り立てて話題にはしなかったが、もちろん諦めていたわけではない。だからこそ七年間、車も買わず、引越しもせず、その時のためにと貯金を続けてきた。
ただいつからか、竹子は半ば観念しかけていた。もっと正直に言えば、もう終わりにしたかった。来るあてのない瞬間を待ち続ける生活が、耐え難いほどの苦痛になっている。夫にそう打ち明けたかったが、やはりその一線は越せなかった。
まだ幼い子供を亡くした人の話を聞き、自分と似た境遇だと感じたのもその頃だ。振り返れば、救いようのない無神経さにほとほと呆れるが、当時は真剣だった。あの時期はずっと、まだ産まれてもいない子供の亡霊に苛まされていた。
だから、妊娠を告げられた時に竹子は泣いた。喜怒哀楽のどれにも分類できない涙を初めて流し、声にならない声で「ありがとうございます」と感謝の念を唱え続けた。
診察室の小さな丸椅子の上で、くの字に折り曲げた身体を震わせる竹子の肩に、「よかったですね」と初老の医師が手を添える。
「ちゃんと、無事に、産んでみせます」
途切れ途切れながら、どうにか言い切って、ようやく理解できた。それまではあまりピンとこなかった「子供は授かりもの」という言葉の意味が、くの字の身体をすっぽりと包み込む。
洗いたてのシーツのような柔らかい感触の中、竹子は泣きはらした顔をあげ、今度はしっかりと「ありがとうございます」と口にすることができた。
目を閉じ、壁に背中を預けたまま、頬を伝った涙を両の掌で拭う。年々ゆるんでいく涙腺には、少々刺激が強すぎたかもしれない。
まだこれからなのに、とティッシュで目頭をおさえる。そう、本当に思い出したい情景は、その晩の出来事だ。
畳敷きの六畳間で、竹子は夫の帰りを待っていた。立ったり座ったり、寝転んでみたり起き上がったり、ちっとも落ち着かない。毎週見ているテレビドラマも、全然頭に入ってこない。
「もう、こういう時に限って遅いんだから」
五分毎に同じような愚痴を呟いている。何度も会社に電話をかけようかと思ったが、その度にぐっとこらえた。仕事の邪魔をしたくなかったから、ではない。夫には出来るだけ落ち着いた状況で、この素晴らしい報せを聞いてもらいたかった。
ここ数年、心の底から夫が笑うのを見ていない。そしてそれは、自分も同じだ。
もともと年がら年中笑いあっているような二人ではないが、それにしてもね……と欠伸を噛み殺す。もう時間は九時をとっくに過ぎていた。
堅実で寡黙で真面目な夫は、今日も一日身を削り、そして神経をすり減らしながら働いていたのだろう。七年間、一緒に暮らしてきた妻には、それが手に取るように分かる。