「断っていいなら、誘うなよ」
「そう言うなって。俺はオマエが来てくれて嬉しいよ。一人で飲んでも、つまらないだろ」
こんな風に酒を飲める友人は竹野しかいない。妻が亡くなってから、人との付き合いは減った。子供たちだけを家に残して、飲み歩くわけにはいかなかった。時間的な理由だけではない。家族で旅行に行った話や、カミさんの愚痴を聞かされると、精神的にも滅入った。かといって、大げさに気を遣って欲しいわけでもなかった。
酔うことで、必ずしも陽気になれるわけではない。そのときの気分を増幅させるだけだ。辛いときには辛さが増す。
その点、竹野は加減がちょうどよかった。小さい会社ながらも社長としてうまくやって来たのは、無遠慮な見せかけとは裏腹な一面を持っているからだろう。
「なあ、五十を目の前にすると、色々と考えるよな」
暫く時間が経って、竹野がそんなことを言い出した。
「何を考えるんだよ」
「これから何をしようかってことだよ」
目の縁を赤くした竹野は、ビールグラスの水滴を指でなぞった。
「若いときは、好奇心の枠がどんどん広がって、仕事もプライベートも、新しいことに手を出して来た。でも、この歳になると、何をしたら良いのかわからなくなる」
「オマエは、まだまだやれるだろ。仕事だって、自分の会社なんだから定年があるわけじゃないし」
「だから余計に思うんだよ。定年があれば、退職をしたあとは旅行にでも行くとか、畑をやるとか、思いつくことはある」
その通りかもしれない。人生には区切りが必要なときがある。その目的地に向かって歩いている間は、自分を保っていられる。私にとっては、子育てがそうだった。
そんなことを考えていると、おしぼりを手にした竹野が、ハエを捕まえるような動作で、テーブルを拭った。
テーブルの上には、黒くて小さな円状の染みがあった。多分、醤油が一滴、落ちた跡だ。
「東京にいた頃の癖が抜けないのかな。黒いものを見つけると、何を見てもゴキブリに見える」
ゴキブリは、北海道で暮らす私たちには馴染みがない。私にはその黒い染みがゴキブリには結びつかなかった。
「ゴキブリは飛べないって知ってるか?」
「羽があるだろ」
「あれは、高い場所から低い場所へ飛び移るためのものだ。多くのゴキブリは、床から天井に向かっては飛ばない」
竹野の話によると、羽よりも体が重いため、空気にうまく乗らないと飛ぶことができないらしい。
「それに、危機が迫るまで、自分が飛べることを知らないんだ。命の危険を感じたときに、羽が開くことに気づくんだ」
俄かに信じることはできなかった。羽があるのに飛べないなんて、宝の持ち腐れではないか。
「籠の中の鳥みたいだな」
「俺たちも、そうなんじゃないのかな。ギリギリの所に追い込まれて、羽を広げてみて初めて、こういう人生もあったんだって、気付くのかもな」
竹野の何気ない言葉が、ふと今の自分に重なった。
もしかしたら私にも、体のどこかに羽があるのかもしれない。一歩踏み出してみたなら、見たことのない景色に出会えるのかもしれない。
自由に空を飛べなくても、静かに滑空するだけで充分だ。不恰好でも、かまわない。かえってその方が、私の人生らしい。