9月期優秀作品
『三月の花火』香名山はな
地下鉄の駅から、どこをどう歩いてきたのか覚えていない。いつもの通勤路なのだから、同じ道を歩いてきたはずなのだけれど、ずいぶん早くたどり着いてしまった気がする。
気がついたときには、最後の角を曲がっていた。突き当りにある我が家が、私を待ち構えているようにも見えて、怖気づく。思わず目を背けるように俯いた視線の先には、両足を揃えて立ち竦んでいる革靴が、雪解け水に濡れてしょんぼりとしていた。
家の玄関にたどり着いても、まだ躊躇いがあった。どんな顔をしたらよいのかわからない。このまま家に帰ったなら、いつもと様子が違うことは、すぐに気づかれるだろう。会社を出たときには、寄り道をしていこうかと考えたけれど、適当な場所を考えることもできないまま帰って来てしまった。
こんなことになるなら、あのときもう少し柔軟に対応しておけばよかったと後悔する。いつも咄嗟の感情で、言い切るのは、悪い癖だ。仁志を頭ごなしに叱ったことが、今となっては悔やまれる。
つい一週間ほど前の出来事だ。あの日仁志は、私が起きたときにはすでに居間のソファに座っていた。大学生になってからというもの、朝に顔を合わせることは、ほとんどなくなっていた。朝帰りでもしたのだろう。もう子供ではないけれど、父親として言っておかなければならないことだけは言っておこう。
そう思って名前を呼んだ途端に、仁志は立ち上がった。何か言いたそうにしている仁志の顔は、思わずこちらが叱られる立場だったかと勘違いするほどの鋭さがあった。
「親父、ごめん」
その言葉を聞いたとき、いくつもの良くない想像が駆け巡った。もしかしたら、留年が決定したのではないか。ほかに考えられるのは、お金だ。学費以外に小遣は与えていない。アルバイトの給料で足りていると言っていたけれど、何か事情が出来たのかもしれない。まさか、交通事故を起こして、怪我をさせたとでも言うのだろうか。
さまざまな可能性を展開させては、否定する材料をかき集めていた。しばらく続いた沈黙の間、言い出すタイミングを逃した仁志と私は、至近距離で向かい合ったままだった。
「どうした?」
仁志を促そうと軽い調子で言ってみた。お互いに緊張していることはわかっていた。
「困ったことがあるなら、なんでも言ってみろ」
そう言いながらも、突拍子もないことを言って驚かせたり、無理なことを注文するのはやめてくれと願っていたし、仁志に限って言い出すはずはないと信じてもいた。
だから仁志が「結婚する」と言ったときには、思わず「誰が?」と尋ねていた。
「誰って、俺だよ」
「お前はまだ、十九だろう」