「よそ見ができるのも若いときだけだろ。いや、浮気しろとか、そういうことじゃなくて、若いときには若いときにしかできないことってあると思うんだ。四十になっても結婚はできるけれど、四十になってから勉強しようとしても難しいだろう」
「まるで四十歳は、もう手遅れって言い方ね」と聡子は笑った。
私は慌てて否定した。麻衣子にも叱られたというのに、まったく学習していない。
「そうやって隆志さんは、自分の物差しで何でも決め付けてしまうの。人の気持ちなんて、他人の意見でどうにかなるものではないのよ」
確かにその通りだと思う。誰に何を言われようと、気持ちは変わらない。それで変わってしまうくらいの気持ちなら、覚悟を決めるほどのことではないとわかっている。
「隆志さんは自分の楽しみが奪われたことに、苛立っているんじゃない?」
「ふん」と鼻で笑うように、今はそんなことが問題ではないと言ったけれど、聡子の言うことは、間違ってはいない。
仁志が生まれる前、男の子だと知らされたときからすでに、父親なら誰でも思い描く未来に胸を弾ませた。
「お母さんには内緒だぞ」と、男同士の会話を楽しみにしていたこともあった。それは叶えられなかったけれど、せめて一緒に酒を飲みに行くのが夢だった。結婚式に出席したときには、仁志の結婚式に親族を代表して挨拶をする場面を想像することもあった。
「一人の人だけではダメなの?」
「ダメってことはない。ただ……」
「一人の人だけをずっと好きでいることって、そんなに難しいことではないのよ」
笛を吹くような柔らかく澄んだ声で、弱点をじわりと突かれていた。
「ねえ、あの日のこと覚えてる?」
「あの日って?」
「私が、別れようって言った日」
忘れるはずなどなかった。忘れている振りをして聞き返したけれど、聡子が口にしたときには、すでにあの日の光景がはっきりと浮かんでいた。七年前のことだ。付き合い始めて、半年ほど過ぎた頃、私は一度聡子に振られた。
私は深く考えもしないで、彼女を家に連れて帰った。もちろん恋人だと子供たちに紹介したわけではなかった。
でも、子供たちなりに察していた。夕食を準備しようと台所へ向かった聡子に、麻衣子は「勝手に入らないで」と言った。
「私には死んだお母さんしかいらない」
あのときの私は、父親として麻衣子を宥めることに精一杯で、聡子の気持ちに気づいてやれなかった。翌日会社で顔をあわせても、聡子は麻衣子のことを気にするばかりだった。
「やっぱり私には無理みたいね」