特別厳しい人ではなかったが、とにかくせっかちで、何をしていてもはやくしろと急かされた。母はどちらかというとのんびりした人だったので、例えば近所のレストランに家族で歩いて行く途中に道端の花をしゃがみこんで見たがったりする。それを父はしっかりしろ、はやくしろと叱っていた。どう考えてもテンポが合っていない2人だ。喧嘩をしているのも何度も見た。ところが仲が悪いということはなく、グアムなんかに二人で遊びに行ったりしている。どうせそこでも喧嘩しただろうに、思い出の地に仏壇を連れて移住したいのだと言い張る。夫婦とは不思議なものだと思う。私の答えを聞いた夫は、父の口癖を真似るのは難しいと考えたようだった。何のかんのと喋りながらあちらこちらを歩き回る母に黙って、でも丁寧に寄り添っている。
波打ち際を少し散歩した後、カフェにでも入ろうかということになった。ゆっくりと海から離れていくうちに、母が満足げに呟いた。
「いいね、海は。楽しいねえ。なんだかあの頃に戻ったみたいだね。」
「グアムみたいだった?」
私が聞くと、母は少し考えた。
「海はねえ、もっともっと綺麗だったし、やっぱりお父さんもちょっと違うけどね。」
びゅうびゅうと風に吹かれて、母はちょっと笑った。夫は父の真似をして、なるべく胸を張って立っていたが、それを見ていつもの猫背に戻りながら、優しげに言った。
「違っていいんですよ。当たり前です。僕はお義父さんの真似っこで、本物はお義母さんのすぐ横にいますからね。一緒に海見てますからね。」
母はパッと自分の左隣を見やって、それからすぐ恥ずかしそうに小さな声で笑った。
「最初はそういうの信じようとしてたんだけどね、わからなくなっちゃって。お父さんがどこにいるのか。」
父の葬式で、言葉も涙も失って、遺影を強く強く抱きしめて離さなかった母を思い出し、わたしは思わず足を止めた。母と夫もつられて足を止め、海を振り返った。
「形がないと信じられないなんて、お父さんにしっかりしろって叱られちゃうね。」
母の声は泣いているようには聞こえなった。どこかすっきりとしたような感じさえあった。
「お父さんは私のこと大好きだからね、どこにでもついてきているし。もしついてきていないなら、天国で私が見た物やした事を細かく教えてあげなきゃね。」
私まで死んじゃうことはないんだわ、母は言いながら海の方に3歩程歩き、くるりと振り返った。
「写真撮ってちょうだい、あのグアムみたいに。」
父が死んでからの母の生活は、もしかしたら疑似的な死だったのだろうか。父がいない世界を楽しく生きていくのが、父に申し訳なかったのだろうか。カメラは持ってきていないので、鞄から携帯電話を取り出して構える。夫が少し迷って母の隣に行こうとすると、母は声を上げて笑いながらそれを止めた。
「良いの良いの、本物と撮るんだから。」