すっかり冷たくなった風が、段ボールの隙間を通り抜け、家全体に行き渡る。母娘二人だけで住んでいたそこは、一時間ほど窓を開けていたらあっという間に冷え切ってしまう。
婚約に合わせて、住居をお互いの職場の中間地点へ移すことにした。私は三駅分職場へ近くなり、浮いた時間で二人分の弁当を作る。
信也の強い説得で、実家はそのまま残しておくことにした。と言ってももう古い賃貸の家だ。手放してもよかったが、「ふじとお義母さんの帰ってくる家だ」と言われ、それ以上粘る気にはなれなかった。結果、それは正解だった。自分の物をただ移動するだけでこの一週間、ひいひい言いながら作業に追われている。二十年以上住み続けた家を、そう簡単に手放せるはずがない。物理的にも、そして気持ち的にも。
壁に掛けられたカレンダーは七年前の八月で時間が止まっている。忙しく働き自治活動にも精を出した母の、予定を記す丸印が、途中から途切れている。
玄関のドアがきしむ音がして、信也が入ってきた。
「さむっ……外とそんな変わんないじゃん」
手に提げたビニール袋からコーヒーの缶を取り出すと、私の方へ投げる。
「こっちの方が気持ちいいの。新生活始まるって感じするでしょ」
信也は、釈然としない顔でプルタブを起こす。結婚への話が具体的に進むと、信也はその穏やかな顔立ちの中にも、様々な感情を滲ませるようになった。恐らく彼も、その内を掴むのに、相当な時間を要する人なのだろう。私が彼に覚えている安らぎは、それでも揺らぐことがない。病室でのあの日、私以上に瞼を濡らしながら、「お義母さん、よろしくお願いします」と深々頭を下げる彼を見て、何度目かの確信を持ったのだ。この人となら生きていける、と。
「そういえば面白いもの見つけた」
私は段ボールの一つから手帳を取り出し、信也へ手渡す。ピンク色のそれを、ぱらぱらとめくる。
「母子手帳?ふじが産まれたときのかぁ」
それは何の変哲もない母子手帳だった。特に成長日記らしきものを付けているわけでもなく、淡々と定期的に、身長体重、接種した予防注射の種類などが記入されている。最後のページまでめくって、信也は「あ、」と声を上げた。
カバーの内ポケットに、写真が挟まっていた。写真は白黒で、小さく上品な鼻をツン、と上に向けたおかっぱ姿の女の子が、三毛らしき猫を抱いている様子だった。
「じいちゃん達が前住んでた家の、縁側だと思う。今はすぐ近くのアパートだけど、何回か行ったの、覚えてるもん」
写真の中の少女は、にこりともせず、こちらを見つめている。同じく目つきの悪い猫を抱くその表情は、少し得意げにも見えた。
「好きだったのかな、猫」
「多分ね」