9月期優秀作品
『煙にとけた思い』坂田志乃
閉じた瞳に真っ直ぐに光が注いでいる。まだうつらうつらしていたい気持ちを抑えて目を開けると、たっぷりとした青が広がっていた。海と空だ。信也が写真で見せてくれた景色よりずっと奥行きのある海と空。もたれていた車のドアから顔を上げると、食い込んだガラス窓のへりで頬っぺたがじんじんと痛んだ。
「起こしてよ」
「気持ちよさそうだったからさ」
こんな海だったらもっと早くから目覚めていればよかった。そう思いながらぐっと伸びをする。私たちが出会い、これからも暮らしてゆくと決めたF市から、信也の田舎までは、車でざっと四時間はかかる。一番伸びをしたいのは信也だろうが、運転席のその表情は、相変わらずのんびりとしている。俺の地元では、この土地の男は頼りなくて引っ込み思案って言われている。それでもよければ、と差し出された手を握ったその日から、もう三年ほど経つ。
「九月の風は湿ってなくていいねぇ。あー帰って洗濯物干したい」
「うちの母も機嫌がいいんじゃないかな、こんな快晴だったら」
痛いほどの陽ざしを和らげる風が、車内へ吹き込む。海のしょっぱい香りを久々に嗅いだ気がした。
三年、つまり三回、信也はエアコンにほとんど頼らない車内での夏を乗り越えたことになる。彼からの告白を受けたのが、梅雨が明ける頃。握り返した手が湿っていた。私は、エアコンが苦手で、という話をした。一緒にいて不快な思いをさせるかも、と。大丈夫という言葉に不安を隠しきれなかったが、彼はあらゆる感情のグラフがゆるやかな人らしく、今日までそれについての喧嘩などは一切行われていない。
「ふじに会うの、楽しみにしてたよ」
彼のゆったりとした口ぶりを聞いていると心が安らいだ。張本の姓を捨て、岩下ふじという人物に成ること、それはごく当たり前の流れだったように思える。
あっという間に海は見えなくなり、白っぽい砂埃を巻き上げて、車は細い道細い道を選ぶように、どんどん山中へ入って行く。肩を寄せ合うように建っていた家並みがやがてまばらになり、お隣さん、という概念がなくなった頃、信也の家に辿り着いた。
信也に二人分、二日分の荷物を持たせ、私は手土産の風呂敷を抱きしめるようにして、玄関の前へ立った。チャイムを鳴らすと、中からはーい、という間延びした返事がして、ドアが開いた。
似ている、最初にそう思った。信也の細い目と、小学生が描いたお面のようなのっぺりした表情を、そのまま齢を重ねた女性に代入したような風貌だった。
「ふじさん、遠くまでありがとねぇ」
「こちらこそ、信也さんにはいつもお世話になってます」
ぺこぺこと頭を下げあう女性陣を信也が、中入ろうか、とやんわり玄関の中まで押し込んで、私はやっと岩下家の門をくぐることとなった。