何年も通ってきた病室の引き戸を開けると、カモミールの香りが立ち込める。母が好きな香りだ。ブラインドを開け、黄色のブリザードフラワーのケースをタオルで拭い、壁に掛けられたカレンダーに丸印をつける。もうずっと、繰り返してきた作業だ。信也は母の顔を覗き込んでいる。信也がここへ来るのは初めてだ。つまり母と会うのも、これが初めてになる。
「顔色、どう?」
「いいんじゃないかな」
多分、と付け加え、二つパイプ椅子を広げる。
白髪混じりの髪の毛が、しわの目立つ顔の周りを覆っている。私の小さくて控えめな鼻は母から譲り受けたもので、気に入っている。倒れる前は、私が反抗するたびに小さく膨らんでいた小鼻だが、今そこには薄グリーンのチューブが差し込まれていた。替わりのように、真っ暗な口がぽっかりと穴をあけている。
「私、高校の頃バスケしてたって言ったでしょ」
「うん」
「練習中に呼びに来たの、顧問の先生が。病院から学校に連絡がきて、お母さんが倒れたから、すぐに行けって」
くも膜下出血だった。命こそ取り留めたが、そこから何年も、この状態が続いている。
「お母さんのこと、母子家庭で大変だし、手伝おうっていつも思ってはいたけど、しばらく好きになれない時期があって。昨日話した、けち臭いとことか、とにかく家事にも細かかったし。やったらやったでお小言も多かった」
「そうか」
真っ白なシーツ越しに母の足を撫でる。シーツはまだ夏用で薄く、温もりを感じることができた。もうこの足がせかせかと、動き回ることはないのだ。女手一つでまるで躍起になるように奔走してきた体。私の高校時代は仕事も掛け持ちしていた。命を多く消費しすぎたのだ。体を壊すのも、当然の話だった。
「でもこうしてね、信也に出会えて信也を支えて行こうって思った時、初めて母からの気持ちを受け取った気がするの」
それをはっきりと自覚したのが、昨夜の蚊取り線香だった。母には全て見えていた。これからの私の人生という大きなサイクルから、とても小さな体調のことまで。
一人になった後のこと。喉が弱いこと、長くは線香を焚いてはいられないこと。二周半、その数字は決してでたらめでないと気付くのに、私はいったい何年かかったのだろう。母の愛は煙となって、ずっとそこにあったのに。
些細なことかもしれない。でもその溝を埋められいまま、会話ができる母との生活は終わりを迎えてしまった。
「口で言えばいいのにさぁ」
きっと不器用だったのだろう母の、ぽっかりと開いた口を眺める。かさついたその唇に、今度リップクリームを塗ってあげなければ。
信也の手が背中に回されて、何度も撫でてくれる。そういうとこまで、お義母さんに似ているんだな、とぼやけた視界と頭の中で思う。