「おいしい……」
一口飲むと思わず言葉がこぼれる。
「そうでしょう」
老人は満足げだ。少し気持ちが緩む。
「徳川警部補が事件について整理する時に、必ず行くマスターがいる喫茶店ありますよね?実はここがモデルなんです」
「そうなんですか。……実は僕、祖父の作品を読んだ事が無いんです」
なんだか自分が情けなく感じて、老人の目を見るのが怖くなった。僕は珈琲に視線を落としたまま答える。
カシャン、と老人がカップを置く音が聞こえる。
「何故、君はこの場所に来たんでしょうね」
「……庭の花が綺麗で……気付いたら店の前に立っていました」
老人はふふっと笑う。
「きっと、光次郎さんが呼んだのかな。あの人らしいな」
老人は再びブレンドをすすり、何か考え事をしているようだったが、しばらくすると意を決したように話し始めた。
「全く強制する気はないんだけれど、読んでみてもいいんじゃないかな。そうだな……手始めにあの物語はどうかな。子ども向けのものだけれどね、光次郎さんの作品にはほとんどない、ファンタジーが一つだけあるんですよ」
僕はハッとして顔を上げた。頭の中を大好きな物語が駆けて行く。
「あれって祖父が書いたんですか?多分、それなら読んだ事あります。それだけは……読んだことあるんです。」
「そうか、何故読んだことがあるんだい?」
「何故って……、面白かったんです。祖父の本棚にある本の中で。唯一……」
「それは興味深い。やはり伝わるものなんだね、だって、あの話は君が読むべき本だもの。」
首を傾げた僕に老人は続ける。
「この店には光次郎さんの本は全て置いてあるんだ」
そう言って僕にウインクすると、突然大きな声で叫んだ。
「おおい、マスター!」
その声にビックリしていると、首に黒い蝶ネクタイをつけたギャルソン姿のお爺さんが音も無く現れた。大体年齢は目の前の老人と同じくらいか。
「どうした?」
「あの小説、持って来てくれ。ヒカリの」
マスターは、無表情に頷いて店の奥に消えて行く。1分も経たないうちに、再び音も無く戻って来たマスターの手には一冊の本が抱えられていた。老人はその本を受け取ると、そのまま僕に差し出した。
「ほら、ごらん」
差し出された本を見て、僕は息を飲んだ。色とりどりの花に囲まれた少年がぶち猫を抱いている。それは僕が好きで何度も読み返したあの物語だった。
懐かしい……何故忘れていたんだろう……。タイトルが目に入った瞬間、僕の全身に電流が走る。
老人の目を見つめて僕は言った。
「……これ……まさか」
「そうだよ。この話の主人公は君だ。君をモデルに書いた話なんだよ。」
思考が追いつかなかった。その本のタイトルは『光の大冒険』と書かれていた。僕と祖父の唯一の繫がりである「光」。ひらがながやっと読めるような幼い僕は、そんなことには気付かなかった。そして祖父はそんなことを一言も言ってくれなかった。ただ僕がこの本を一生懸命読んでいる様子をただただニコニコと眺めていただけだ。