洋館のドアを開けると、リンと澄んだ鈴の音がした。
「いらっしゃいませ」と落ちついた店員の声が聞こえる。老人は常連のようで、いつもの席、空いてる?と当たり前のように聞いた。
店内は昼間でも薄暗い。アンティーク調の家具がオレンジ色の温かな照明に照らされ、うっとりとした様子で佇んでいる。ふと横を見るとカウンターの上にはいくつものサイフォンが並び、コポコポと珈琲を抽出している。より強くなった珈琲の香ばしい香りを肺いっぱいに吸い込む。
外からは分からなかったが、店内ではたくさんの人が午後のひと時を楽しんでいた。井戸端会議に勤しむマダムのグループや一人で読書に集中する学生。皆珈琲カップを前に思い思いの時を過ごしており、この店の評判がよく分かる。
通されたのは一番奥のソファ席だった。ソファにはパッチワークのカバーがかかったクッションが置いてあり、微妙に座りにくい。何度か座り直して落ちつくポジションが見つかった。隣にあるステンドグラスの窓からは通りを行く人たちがよく見えた。
店内の目につくところには大きな絵画がいくつか飾られていたが、統一感は全く無さそうだった。特に有名な画家の作品というわけもなさそうで、僕はその統一感のなさに親しみを覚えた。
老人は、メニューを見ずにブレンド珈琲を頼んだ。僕も同じものをお願いした。僕が注文したのを見届けると、ごく自然に老人は話し始めた。
「光次郎さんは、いつもこの席で執筆していたんですよ。この席からは人間観察も出来て小説に活かせると言ってね」
僕はメニューを開いたまま、老人を見た。
「……祖父もこの店に来た事が?」
老人は目を見開く。
「何をおっしゃる。ここは光次郎さんの行きつけの店じゃないですか。なんなら私も光次郎さんから紹介されて通い出したんですから」
僕はもう一度店内を見渡した。何人かの店員がゆったりとした空気の中、珈琲を運んだり注文を取ったり、まるでプログラミングされた動きかのように、無駄なく動いている。確かに祖父が似合いそうな店ではあるが……。その光景をぼんやり見つつ、頭の中で考えを整理しながらゆっくりと聞いた。
「祖父はこの辺りに住んでいたんですか?」
その言葉に老人は再び目を見開き、僕に顔を近づけた。
「驚いた。君は何も知らずにここに来たのかい」
僕はゆっくりと視線を下げ、自分の靴の、色の剥げたつま先を見つめた。カチ、コチと時計の針が唐突に時を刻みはじめる。
「……住んでいたのはずっと若い頃ですね。引っ越してからもここに代わる所はないと通われていました。……光次郎さんは、君の話をよくしていましたよ。自慢のお孫さんだって」
「まさか!祖父と僕はほとんど会話をしていなかったんですよ」
「……そうでしたか。でもそれは晩年のことでしょう?君がまだ言葉も話せなかった頃、この店に連れて来て、ひとしきり皆に紹介していたのを覚えています」
老人はさも可笑しそうに話す。
「何度も何度もしつこくてね。その時もこの席でしたね」
僕は固まった。この喫茶店に、いやこの町に、僕は来た事があったのか。懐かしいと思ったのは、レトロな街並みだったからでも、本の内容に似ていたからでもない。実際に、僕の記憶の奥底に眠っていた町だったからなのだ―-。
店員がブレンド珈琲を運んできて、静かにテーブルに置いた。