思えば駅からずいぶん離れてしまっていた。
「……そろそろ戻るか」
強い風に身をすくめて踵を返そうとした途端、視界の端に美しいものが飛び込んで来た。振り向くと、対岸にカラフルな家があるのが見えた。何かに引き寄せられるように橋を渡る。近づくにつれ、カラフルな壁だと思ったのは、植えられたたくさんの花だということに気付く。
その洋館の庭には赤・黄色・オレンジ・白・ピンク・青・紫……色とりどりの花が思い思いに咲き乱れていた。洋館が人々を引き寄せるために咲かせているようにも見えた。その様子はとても美しく、季節外れの光景だということを忘れさせる。さらにどこからともなく香ばしい香りがしてくる。珈琲の香り……?
「ちょっと、お兄さん」
自分の世界に唐突に声が降り注いだ。反射的に振り返ると、そこには白髪の老人が立っていた。黒い帽子に黒いコートをまとっている。
「……な、なんですか?」
すると老人は優しげな口調で
「入らないんですか?入り口の前に突っ立って……どうかされましたか?」
「入り口って……」
よく見ると洋館の門には「OPEN」という札がかけてある。
「そこ、喫茶店の入り口ですよ」
「すみません!」
僕は慌てて脇にどいた。
「どうも」
そういって老人は僕に会釈した。ゆっくりと門をくぐる老人に僕も反射的に会釈を返す。気まずくなって、立ち去ろうと踵を返した。あれ、でも今の人、どこかで見たような気が……思いを巡らせていると肩を叩かれた。振り返ると、今しがた門をくぐったはずの老人が目の前に立っていた。
「ああ、やっぱり。光次郎さんのお孫さんでしたか。」
そう言ってその老人はくしゃくしゃな目をさらにくしゃっと細めた。
きょとんとする僕に続ける。
「私は、光次郎さんに大変世話になった者です。葬儀にもお邪魔致しました。実はその時、あなたの姿をお見かけしていたのですよ」
それを聞いて、やっと思い出した。目の前にいたのは葬式で祖母に話しかけていた、山高帽の男性だった。老人はにっこりと微笑んだ。
「光次郎さんに目元が瓜二つだ」
そう言って僕の目を覗き込む。咄嗟に体を反らしてしまったが、その目は淡く茶色の優しい光を放っていた。その後、どうです?ちょっと一杯。ここの珈琲は絶品ですよ、と誘われほぼ初対面の老人とお茶をすることになった。今更、祖父について話すこともないと思って丁寧にお断りしたのだが、老人が意外と強引だったのと、この町一番の喫茶店ですよという言葉に好奇心をくすぐられた。今思えばその日の僕は、いつもの僕とちょっと違ったのかもしれない。