そこまで話すと、ピーッという電子音が響いた。炊飯器が炊きあがりを知らせる音だ。立ち上がりながら母は言った。
「良かったら物件探してみれば。しちふく、良い町よ。なんか良い事ありそうな名前だしね」
七福町ねぇ……と考えを巡らす僕の鼻に、炊きたての白米の良い匂いが漂って来る。
僕が住む駅から乗り換えること2回。私鉄で、さらに各駅停車しか停まらないので見落としていたかのように、ひっそりとその駅は存在していた。深緑色の電車から降り、2つしかないこじんまりとした改札機を抜けると、冷たい風が勢い良く吹き抜け、思わずマフラーを巻き直す。七福町の駅前は、なんとも雰囲気があった。七福通りと書かれた年代物のアーケードの下、100メートル程店が並ぶ、どことなく懐かしさを感じる街並みだった。店頭で焼いている焼き鳥の香ばしいタレの匂いや、白い息を吐きながら人を呼び込む八百屋の店主の大きな声がする。地元民に愛されている商店街なのだろう。
駅の目の前に不動産屋があることはすぐに確認できたので、少し町を歩いてみる事にした。母が住んだという町がどんな場所なのか、見てみようと思った。
ぶらぶらと七福通りを歩く。寒い日にも関わらず行き交う人は多い。新鮮さが売りの野菜が所狭しと並ぶ八百屋、店頭にさばく為のまな板が設置してある魚屋、旬の食材で作った料理をお婆さんが量り売りする惣菜屋……全国チェーンの有名なファミリーレストランが、居心地が悪そうに電気屋とおばさま向けのブティックの間に挟まっていたりする。店の並びだけでも町の生活が見えるようで面白い。
文房具店の前を通った時、何故だか懐かしい気持ちに襲われ足を止めた。佐々木文房具と白文字で書かれた看板は、昔は抜けるような真っ青だったのだろう。年月の経過と共に板はささくれだち、青も果てしなく薄いコバルトブルーになっていた。店先には子ども向けのおもちゃや薄い本、光の加減でピカピカ輝くシールが陳列されている。
店頭に置かれたキャンディーみたいなシャボン玉セットを手にしながら、子どもの頃はよくこういう場所で飽きずに商品を眺めていたことを思い出した。そういえば、あの少年の物語にもあったのだ。少年が文房具店で買ったシャボン玉はいくら膨らましても割れない魔法のシャボン玉だった。少年は思い切り膨らました大きなシャボン玉の中に相棒のぶち猫と入って、大空へ探検に飛び立った……子どもの頃はその夢のような展開にワクワクした。いつの間に純粋な心を無くしてしまったのだろう。あの少年の住んでいた不思議な町は、もしかしたらここみたいな町だったのかもしれない。
商店街の終点には小さな神社があった。
「しち、ふく、神社……」
文字がにじみ読みづらい看板から顔を上げると、うっすらと苔をまとった鳥居が見下ろしている。鳥居の横にはお地蔵さんのような小さな石像が、7つ寄り添い並んでいた。七幅町という地名からして、七福神にまつわる何かが奉られているのだろうか。
鳥居をくぐると薄暗い林の中、小さな本殿がひっそりと建っていた。なんとなく手を合わせ、願い事を呟く。
「良い引っ越し先が見つけられますように……」
目を開くとギョッとした。先ほどまで地味だった本殿が光を放っているように見える。木立からの木漏れ日とかのせいだとは思うが、ちょっと気味が悪くなって慌てて神社を後にした。
さらに進むと川が現れ、向こうに赤い橋がかかっているのに気付いた。「弁天橋」だ、と思った。それもまたあの少年の物話に出てくるのだった。少年は町のシンボルである赤い橋「弁天橋」の上で川の守り神、長老カッパと出会う。カッパとの相撲での力比べに勝った少年は、ある台風の日、カッパたちと力を合わせて大雨から町を救うのだ。その話を読んでからしばらくは、川を見たらカッパがいないか目をこらすのが僕の中での決まりだった。幼い日の自分を思い出し、少し恥ずかしいと思いながらも歩を進め、赤い橋に着いた。人がすれ違える幅だけの小さな橋だったが大きな青い空と金色の河原に赤い橋はよく映えた。橋のたもとから眺める景色はとても美しかった。久々に子どもの頃の記憶を取り戻したからだろうか。心はとても清々しく、この偶然に感謝した。