とうとうさち子の目から涙がこぼれてしまった瞬間、和夫は駆け寄り抱きしめた。その勢いで手から離れたモップがパタンと音をたてた。鍋が床に転げ落ち、ソーダの残りが泡を立ててこぼれる。それでも声をあげて泣くことはせず精一杯頑張って立っているさち子を和夫はさらに強く抱きしめた。
「わかった、わかったから」
2学期が始まった。放課後のウサギ小屋。今日はちゃんと掃除しているさち子とカツオ。うさぎたちも嬉しそうに動き回つている。
「なんとかなったんか?」
カツオは平気で掃除しているさち子がよくわからない。
「うち、社宅、戻るしな」
「え?」
驚いたカツオがホウキの手をとめる。
「あ、社宅の近くにやで」
さち子がにんまりしてカツオを見る。
「ホンマに?」
「うん、パパがな、キズは浅いうちにて」
「なんのキズ?」
「さあ……。高い勉強代やったて」
カツオは何のことかはわからないが「そうか、良かったな」と笑った。
「うん、今度はな、3階建てのちっこい家やけど、出窓いっぱいあるねん」
「へー」
「かっちゃんのよー行くコンビニの隣やで」
「あー、あそこか」
そういえば、1戸建ての家をつぶして、3階建てを2軒、建設中だったことを思い出す。
「1階は殆ど駐車場でな、ポン太も気に入ると思うわ」
「そりゃ、ええわ」
「引っ越したら、遊びにおいでや」
「ええんか?」
「うん、鍋とソーダのお礼や」
「鍋とソーダ?」
ハテナ顔のカツオをよそに、お礼するのは当り前と、どや顔でさち子が笑う。
秋。社宅に近い商店街の中にある、3階立ての小さな家。その3階の出窓からさち子が通りを眺めている。大声で笑ってしゃべるtheおばちゃんたち。尻尾フリフリ愛敬たっぷりに散歩する犬。荷物を落っことしそうになりながらカートに乗せて走る宅急便のお兄ちゃん。
向こうから自転車でやってきたカツオが手を振った。
(かっちゃん、来たんや)