8月期優秀作品
『さち子の出窓』武部縁
夜、時計の針は8時58分を指している。
小さな社宅の一室、狭い台所の食卓テーブルでさち子は宿題をしていた。まだ9時前だというのに、もう目は閉じかけ、鉛筆を握る手もあやしい。
台所で片づけをしていた母の登紀子が見かねて声をかける。
「さっちゃん、もうクチュクチュして寝なさい。そこで寝たらあかんよ」
そう、さち子は夜に弱い。もう11才というのに、起きたまま9時を超えることが殆ど無い、というか、ゼロ。
クチュクチュというのは、登紀子がほうれい線予防のために始めた寝る前のうがい。20秒間、口にいれてクチュクチュしなくてはいけない。ちょっぴり大人の味が気に入っているさち子。まだ8才の妹、みつ子には少し早く、さち子にとってはヒミツの味。いつも帰りが遅い父親、和夫の加齢臭防止対策にも一役かっている、さち子の家の新兵器。
さち子の通う小学校は歩いて20分ほどのところにある。校区が縦に長く、遠くの友人の家に遊びに行くには子供の足ではちょっとつらかった。さち子は社宅近くの商店街や公園が好きで、その続きにある小学校もお気に入りだった。
放課後、週1回のウサギ小屋の掃除をしているさち子とカツオ。ふたりは同じ社宅で生まれて育ち、今は組も係も一緒。といっても5年生にもなると教室で口をきくことは殆どなかった。うさぎはさち子たちのホウキを上手に除けて、モグモグとエサを食べている。
あくびをしながらため息をつく器用なさち子。
「なんで、5年が生き物係せなあかんのやろ」
「4年より下はまだガキンチョやし命は任せられんやろ、6年はなんやかなで忙しんや。しゃーないやろ」
筋が通ったような、それでいて説得力のないカツオの言葉を素通りするさち子。
「なんで、うちらなんやろ」
「なんでって……」
さち子が生き物係に決まった途端、間違えたフリして立候補した自分を思い出すカツオ。返す言葉が見つからずうろたえる。
「お腹もすいたし、なんや眠いし……」
さち子は何も気付いていない様子。
「9時まで起きとれんヤツが眠いわけないやろ」
適当にごまかしてみた。
「春眠暁を覚えずや、知ってるか?」
そのさち子の言葉に安堵したカツオは「ま、もうすぐ夏やけどな」とかわし、完全に動揺を乗り越えた。
そんなことは露知らず、さち子はふと掃除の手を止めて、外に見える洋風の家の出窓に目をやる。そこは性格、成績、スポーツと3拍子揃った5年生一番のスリーエス王子、佑真の家。