もっとだ。もっと言ってくれ。そう思いながら、冷蔵庫に手をかける。
妻が布巾をきつく絞っていて、水滴がピピピとシンクに形をつくる。
「あ、そうだ。洗濯機もう一回まわそっか」
妻が思いついたように、娘に微笑みかける。娘は、うんっ、と大きく頷き、妻の背中にくっついたまま部屋から消えていった。舞台にはなんと俺一人がとりのこされ、もはやここは舞台ではなくなってしまった。いや、これもまた家族という舞台なのか? などと迷走してしまう。
残り一つになってしまった缶ビールを取り出して、ソファに腰掛ける。ぷしゅっという音がして、勢いよく出てくる泡をすべて吸い込むくらいの気持ちで食らいつく。しかし、泡は氾濫していて、抑えることができない。暴発した泡がつま先で冷たい。その隣では、カーペットにシミをつくっている。あーあ、と思う。その上で、あーあ、と言ってみる。しかし、結局、あーあ、と思う。顔を上げると、大ぶりのぶりんぬが壁を這っていて、もう一度、あーあ、と思う。タイミングの悪いやつだな。ぶりんぬは右にいったり、左にいったり、不規則に緩急をつけて狭い我が家を冒険している。ゴキジェットはこの部屋にはないし、なにより娘はこの部屋にはいない。観客がいなければ、ヒーローショーは中止だ。自由に生きるがいい。一瞬、このぶりんぬを娘の部屋へ連れていこうかと考えた。本当に俺は馬鹿だな、と思う。飲み忘れていたビールの残滓を注ぎ込み、テレビのリモコンに手を伸ばす。音量をいくつか上げるが、遠くで娘の声が聞こえてきて、音量を一気に下げる。お気に入りの洋服を洗濯するかどうかでもめているらしい。それでも、明瞭に何かきこえてくるわけではない。ちくしょう。ビールをぐっと飲み干す。気が付くと、ぶりんぬの姿は既になく、壁は一面白になっていた。缶をくしゃりと潰して、ぶりんぬの足跡に、お願い事をひとつした。
その日の晩御飯の後、娘は机に向かっていたので、何しているのと訊くと、今度学校で読むことになった作文を書いているのだという。娘は全身をめいっぱい使って隠すようにしていて、作文の断片もみせようとしない。見せてよ、と訊くと、やだ、とぶっきらぼうに言われた。俺は飲みかけていたビールを机に置いて、ダイニングテーブルに腰掛けた。小さな腕の隙間からのぞける、大きくて乱雑な字が愛らしい。声には出さずに、見えたり隠れたりする拙い文字を、丁寧に拾っていく。断片を繋いで、頭の中で文章におこしてみるが、『お母さん』に関することばかりが完成する。『お父さん』を見出すことが難しくてつらい。それでも、『ぶりんぬ』はいくつか見えていて、激しくつらい。
娘は俺が作文を覗き込んでいることに、全く気付いていない。自分の書いた文字を何度も何度も読み返している様子だった。気に入らないところがあったのだろうか、消しゴムで何度か消して、文字を丁寧に書き入れる、それを繰り返している。
娘は、ふうっ、と身体をおこすと、作文を、自分を眺めていた俺に気づいた。目が、合っている。まあるい茶色の瞳が、まだこの感情を知らない顔が、本当にかわいいと思う。
「見たい?」